読み途中の紙の本がゴンブリッチの『美術の物語(ポケット版)』*1とか『世界サメ図鑑』とか、通勤に持って行くには不適当な大きさの本ばかりになってしまったし、電子書籍は『新・大学生物学の教科書』などのリフロー型書籍ばかりになってしまい、iPhoneの小さい画面で読むにはあまり適さない。それでここ数日は昔読んだ薄っぺらい本を持っていって読んでいる。割と阿呆のように付箋を貼っているのだけど、改めて読み返すとなんでこんなところに付箋を貼ったのかわからないのもあるし、逆に付箋を貼ってないようなところにおっ、となることもある。でも明日もう一度同じ本の同じ場所を読んで、もう一度「おっ」となるだろうか。まあ、今日「おっ」と思ったその感覚をまだ覚えているからもう一度「おっ」となるかもしれないけれど、それは昨日感じたものを思い出しているだけかもしれない。
読書は相対的で瞬間的なものだ。「好きな本を10冊紹介すればその人がわかる」みたいな言説を見たことがあるけれど、人生通してずっと好きな本なんて存在するのか、存在したとしてそれが10冊もあるものなのか。どう考えてもない。内田百閒とか永井荷風の本を阿呆のように読んでいた時期があるけれど、今はそうでもない。『断腸亭日乗』が全9巻で岩波文庫から出ているが、そんな時期に出ていたら絶対に買っていただろう。大学生の頃だったら絶対に『立原道造詩集』と『寺山修司少女詩集』の2冊を挙げただろうけど、今挙げろと言われたら入らない。頑張って10冊挙げてみようと思ったけど、やっぱり6~7冊ぐらいしか浮かばないし、そのなかで今も時々読む本といったら「公認野球規則」と「JTB小さな時刻表」ぐらいなものだ。
徹底的に他人が信じられない。他人の言葉を信じることができない。他人の言葉ではだめだ、自分で作り出さなければいけないんだ、と書いたのは『短歌という爆弾』の穂村弘だったか。この世界のどこかに、処方箋のような言葉があるとは信じていない。この世のなかのどんな言葉、どんな思想も私の生き方を肯定するものではなくて、結局それは自分ではない誰かが考えたことだからだ。自分の言葉で世界を捉えられること。他人の言葉に触れなくてもいいような、自分が生きていける言葉を構築すること。生の積極的な否定ではなく、生を積極的に肯定しないこと。それができるようになるまでは、少なくても生きていようかなと最近は考え始めている。
*1:ポケット版といいつつ国語辞典より分厚いぐらいの大きさがあり、私にしては珍しく発売から割とすぐに買ったのだが、未だに読み終えていない