性格診断の類をやらされると「時と場合による」としか答えようがない設問が多くて困る。そうでなくても目玉焼きは嫌いだし、犬も猫も好きではないし、朝食はバナナとグラノーラだ。好きなアニメも漫画もない。テレビは見ない。好きな芸能人もいない。特定のYoutubeチャンネルをよく見るということもなければ、人間を好きになることもない。生まれ変わりたいとは毛頭思わない。質問のしがいのない人だと思われるかもしれないけれど、私に質問をしようなどという人が今後出現するとは思えないし、私にそういう質問をしようと思う人のほうが悪い。
質問に対して「これが好き」と答えていくのは、自分を他人にも読めるように翻訳していく作業だと思う。自分、この不確かなものを可読性のあるものに変換していき、外の世界と共通の言語に晒していく。むかしあった*1「100の質問」とか、なんとかバトン、みたいなものは、不特定多数に同じような質問をしていって、同じような形に個人を解体して消化可能にしていく。
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そもそも生きていること自体がそんなに好きでないから、何にでも「ない」と答えるような人間になってしまったのだと思う。でも、子どものころは朝目を覚ましてから朝食の準備ができるまで、ベッドのうえで目をつぶりながら、この世界の延長線上にある別の世界のことを考えることが好きだった。この世に存在しないものについて思いを馳せること。でも眠りに落ちたくはない。夢は自分の思い通りにならないから。
想像力には二種類あると思っている。現実からどれだけ離れた地点を想像できるかということと、現実とどれだけ近い地点を想像できるかということ。私の場合は後者で、現実みたいな空想の世界をつくってそのなかに住むのが好きだった。
境界上にいること。睡眠と覚醒のあいだ。現実と想像のあいだ。
ここではないどこかにいること。
そういうふうに言い換えると案外今でも変わってないんじゃないかと思ったりもする。「どちらでもない」そんな場所、境界線のうえが好き。マージナルマン。だから「どちらでもない」とか、「その場による」とか答えるのではないか。そう書くと、なんだか精神的に成熟できない大人みたいだけど。ピーターパン症候群。
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なんとかバトンの類、「見た人絶対」という強制がついていることが多くて、それを最近またインスタグラムのストーリーズでちょくちょく見かけるようになった。あの「見た人絶対」という心理があまりよくわからなくて、自分ひとりで盛り上がっているのが嫌なのか、でもひとりで盛り上がっていてもいいじゃん。
好きな法律は祝日法だし、好きな高速道路は上信越自動車道、好きな紙はミドリのMD用紙で、時刻表はJTB派。たぶんみなさんはこれらの質問に「ない」とか「どちらでもない」と答えるだろうと思う。見た人絶対。