希望があるから絶望できる

過去数週間の熱狂が一体何だったのかと思えるぐらい、いまはなんにも思い浮かばない。毎日昼休みになると近くのカフェに籠り、平均してバイブルサイズのシステム手帳*1の3分の2ぐらいのことを書いているのだけど、さてブログを書こうかと編集画面を立ち上げるとそこで思考が硬直する、そんなようなことをここ一週間ばかり繰り返していた。数年に1度訪れる、ブログを書きたい欲というのが、今年はもうそろそろ萎んで来た頃なのだろうか、このまままた自然に消滅して、再びそういう欲が湧いてきた頃に、ふと更新を始めるのだろうか。

それとも本を読んでばかりいるからか。

また阿呆みたいに本を買い込んでしまった。最近読んだのはカフカの断片集、ルソー『孤独な散歩者の夢想』、ショーペンハウアーの『幸福について』、カミュの『シーシュポスの神話』といったところで、いまシオランの『生誕の災厄』とニーチェの『喜ばしき知識』を読んでいるので、珍しく読書が趣味であるような人が読むような本を読んでいる。シオランちくま学芸文庫からも出たのでブームが来ている気がする。カフカの断片集やニーチェのようにアフォリズム的。アフォリズムは今の時代にハマるのだろう。Twitter*2によって140字までの文章しか読めなくなってしまった我々現代人には。

しかしシオランは10年ぐらい前に読んでいたらもっと夢中になって読んだのかなと思う。相変わらず人間社会で生きていくには向いていないから、この世界にいないほうが世界は5mmぐらいマシになるのではないかと思う。生まれ変わったら何になりたいか、と訊かれたら生まれ変わるなんてまっぴらだ、と答えるし、人生でやり直せるならどこに戻りたいか、と訊かれても人生なんてやり直したくないと答える。別に生きていてもしょうがないからいつ死んでもいいと思っているのも変わっていない。でもじゃあ積極的に生を否定するかというとそこまでしなくてもいいんじゃないかと思うぐらい、この程々にクソな生活を楽しんでいる感覚はある。社会がどう考えているかは別として生まれてこないほうが良かったとまでは思わない。あるならあるで楽しむし、終わるなら終わるで悲観しない。そこには乾いた諦めのようなものがあって、絶望なんてしていない。希望があるから絶望できるのであって、希望がなくなったあとには絶望すら存在し得ない。

*1:170mm✕95mm

*2:我々がこうなってしまったのはXがまだTwitterと呼ばれていた頃である。