言葉は他人に「届く」のか

椅子から滑り落ちて目を覚ました。ニーチェの『喜ばしき知恵』を読みながら寝落ちたらしい。椅子へ戻ろうとすると身体の何かがおかしい。すぐに腰から下の力が全く入らないことに気がついた。でも頭の下に腕を置いたまま寝落ちたのと同じように、またすぐに感覚が戻って来るだろうと思っていたが、いつまで経っても腰から下の感覚が戻らない。これはいかんと思って床を這いつくばり、なんとか腕の力だけでベッドに登って横になった。そしたら今度は全身に痙攣の症状が出た。これはいよいよいけないと思っていると、そのうちどうやら眠ったらしい。

誰かによって語られた言葉が自分を変えたという経験がないから、自分が語った言葉が誰かに「届く」という感覚がよくわからない。他人の感覚が自分にわかるはずなんてないのだけど、言葉とか思いを届けたい、と言っている人をよく見かけるので、何かを「発信」している人は、他人の感覚がわかる人が多いのかもしれない。

読者を想定していないのではなく、「想定できない」のではないかと思う。最初の読者は書き手自身、というけれど、それさえも。四次元空間(たまに大昔に書いた記事に星がつくことがあって、なるほど四次元空間なのかもしれない。)に向かって小さな石を投げる。あとはどうなったか知ったことではない。でもそうやって投げることによって、その言葉は自分の所有物ではなくなる。それが手帳に書いた言葉との一番の違い。手帳に書かれている限りその言葉はまだ自分の所有物だ。ブログしたい欲というのは、道端に落ちている小さな砂利を、どこでもいいからどこかにぶん投げたくなって、でも誰かに当たると大変だから、誰もいないところを狙って大きく振りかぶってぶん投げるのに似ている。

本を6冊売って、2冊買った。今日いちにち普通に過ごした。どこまでが夢で、どこまでが現実なのか、今ではもうわからない。全部夢だったのかもしれない。でもそうすると、今朝目が醒めたらベッドにいたことの説明がつかない。月に1度の通院日だったけれど、今朝起こった不思議な出来事については先生に話さなかった。心のなかの小さな不安は相変わらず体の前面の下のほうでおとなしくしている。1日の大半をそこでじっとしているのだが、朝目を覚ますたびに暴れている。