年末年始日記(2)

12月29日

「年末年始日記」は3日ごとに区切って出そうと思っていたのに、最初の2日が予想外に長くなってしまったので昨日までのぶんで一旦出すことにした。2日で区切ると9連休なので1日余る。どこかで1日とんでもなく長い量を書かなければならなくなる。

しかし年始まで続くのかわからないものに(1)という数字をつけて早々に上げてしまったので、年始までこれをやらなければいけないことになった。本当は1日あたりの量はもう少し短くなる(300字程度)はずだったのに。

形而上学とは何か』(秋葉剛史/ちくま新書)を少しずつ読み、少し前に買った『現代存在論講義I』(倉田剛/新曜社)も読む。こちらは土曜日にIIのほうを買ったのでもう後には引けなくなった。こないだまで現象学の本を読んでいたけど、いまは形而上学。だいたい2週間ぐらいで飽きがくるはずなのに、今年は4月にシオラン『生誕の災厄』を買ってからほぼずっと哲学だ。なんでこんなに長続きしているのか、相変わらずわからない。自分なりの答えを出すためなのか、それとも誰かが書いた答えを探しているから――ショーペンハウアー風に言えば「他人に考えてもらうため」――なのかは、もはやわからなくなってきている。『実存から実存者へ』の「倦怠」の分析を読んで、いつもならそこではいおしまい、のはずなのに、もっと読みたい、と思ったのは、やっぱりどこかで「面白い」と思ったからなんだろうな。百科事典的に知識を蓄えるだけの人間から、「考える」ということができる人間になりたいとでも思ったのか。

 

12月30日

『「誰でもよいあなた」へ 投壜通信』(伊藤潤一郎/講談社)。ヘーゲルと「推し」に言及した「あてこまない言葉」は面白い。「推し」文化については知り合いが日本人の多神教性、つまり「信仰の対象」として論じていたことがあったが、ここでは他者論として論じられている。他者を自分に必要なものとして重すること、そして自分も他者を必要不可欠なものとすること。それが「推し」なのであって、だから「推しは尊い」。

そういう共同体に向けた、心地よい、共通に理解できるような言葉には限りがある。それは、共同体という見方をもう少し広げて、「バズること」を目指した言葉、と言ってもよいだろう。だから逆に、どこまでも共感を拒否するような言葉、自分自身しか発せない言葉を書いて行けと言われてる気がした。

楽しいというある意味ではどこまでも自己中心的でありながら内奥から沸き起こる感情が宿るとき、言葉は短期的な「あてこみ」の地平を越えて可能な限り遠くまでたどり着く。もしそこで意味の変容が起これば、その受け手は「あなた」と呼ばれるだろう。「あなた」とは、意味が所有から解放されるきっかけなのであって、あらかじめ想定された存在ではないのである。

こういう話をしていて真っ先に思い出したのは最果タヒのエッセイ『きみの言い訳は最高の芸術』(河出文庫)。

詩の言葉は、理解されることを必要としていない。人によっては意味不明に見えるだろうけれど、でも、だからこそその人にしか出てこない言葉がそのまま、生き延びている。わからない言葉であればあるほど、その人はその人だけの人生を生きてきたんだと、はっきりと知ることができるから。そうした言葉はきっと、詩人でなくても、詩という形でなくても、誰にだって眠っている。共有だとか共感だとかそんなことを忘れてしまえば、きっと溢れてくるはずで、だから私は、そんな言葉がもっとたくさん聞きたいと思う。いろんな人と、何言ってるのかわかんないよ、って笑ってみたい。人が、自分とはまったく違う人生を過ごしてきたんだということを、大切にしていたい。100%の理解なんていらないし、したくもないんだ。きっと人は、ちょっとわからないぐらいがちょうどいい。(「わからないぐらいがちょうどいい」)

言葉とはほかの人と何かを共有するためのツールだけど、それを既存の言葉に表すたびに、「意味」からあふれた部分が削り落とされていく。すり減っていく。それは詩の言葉ではなく、日常会話のなかでもきっとそう。

共感とか共有が大嫌いで、友達がいなくて、読み手のことを考えて、なんてことが苦手だから、なんか無理に人に合わせることなんてない、アクセス数を稼ごうなんて思わなくていい、わかってもらえなくていい。このまま命が尽きるのを待っていればいい、そう思って本を閉じる。

にしてもこうやってヘーゲル論を出されると今度はヘーゲルを読みたくなる。このあとにまだハイデガー形而上学存在論ウィトゲンシュタインが渋滞しているのだけども。