1月2日
朝から上州八木節や和太鼓などとてもJ-WAVEとは思えない曲が流れている。寒い。どうも寒いと思ったら窓が開いていた。そう、こんな感じの日記になると思っていたのに毎日本のことばかり書いている。12/31~1/1などそれぞれ独立した一記事になってもいいぐらいの長さになっている。
今年もちくま学芸文庫の4割引きクーポンも始まった訳だが、ちくま学芸文庫は読みたい本が基本的に電子化されない。椹木野衣の『シミュレーショニズム』はどうして電子にならないのか。『シミュレーショニズム』が電子にならないから『現代/日本/美術』も電子にはならんだろうと思っていたら早々に電子になってしまった。ただ『現代/日本/美術』は新刊すぎるからか今回のクーポンは対象外であるから何の問題もなかった。ともかく新刊電子化のタイミングにばらつきがあることがちくま学芸の唯一の欠点であると言っても過言ではない。
今年の9月は奈良に行こうと決めた。夕方からは行く先を決めていたから読書はあまりしていない。夜になって雪が降った。
1月3日
雨戸をあけると積もった雪が眩しかった。さすがに8日も連続で読書をしていると集中力が切れてくるらしい。今日はあまり捗っていない。hontoポイントの2倍が今日までなので『はじめてのウィトゲンシュタイン』(古田徹也/NHKブックス)『英米哲学史講義』(一ノ瀬正樹/ちくま学芸文庫)『科学哲学への招待』(野家啓一/ちくま学芸文庫)買う。
こういうときは「軽い」か「薄い」本を読むべきであると思い買ったばかりの『〈子ども〉のための哲学』(永井均/講談社現代新書)を読んだら、薄いけど思ったより軽くはなかった。ただ『レヴィナス 「顔」と形而上学のはざまで』よりはよっぽど軽い。レヴィナスは読みすぎて疲れているだけかもしれない。レヴィナス疲れ。
それにしても、どうして私が9か月の間以上哲学の本ばかり読んでいるのか。
もし自分のなかに哲学することへの欲求というか、内的必然性というか、要するに問題があるならば、たとえ他人が理解してくれなくても、まったくひとりであっても、ずーっと考え続けてみることができるし、そうしてみるべきなんじゃないか、ということに尽きる。
(永井均『〈子ども〉のための哲学』, 講談社, 1996)
この本の感想は長くなるかもしれないし、うまく言語化できなくて全然書けないかもしれない。そのどっちかだ。
夜あらためて『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均/ちくま新書)の続きを読む。風呂に入って『〈子ども〉のための哲学』の前半部分だけの感想を書いていたら止まらなくなった。一度考え出すと止まらない性格なので困る。
1月4日
どこかへ行っても良かったのだけど、寒かったのでやめた。手帳の後ろにとじていた2025年のダイアリーリフィルをアーカイブに移す。会社に持っていく筆箱をサメ革のものから、少し大きいコードバンのものに替える。少しずつ2026年を始めていく。
『ウィトゲンシュタイン入門』を読み終える。後期の言語ゲームの概念は全然よくわからなかったのだけど、昨日買った『はじめてのウィトゲンシュタイン』と絡めて整理していくことになるのだろう。
世界の中で起こる出来事はすべて偶然であり、偶然的でないのは、世界を形づくる論理形式と世界を超えた価値だけである、とウィトゲンシュタインは言う。
(永井均, 『ウィトゲンシュタイン入門』, ちくま新書, 1995)
この世界の出来事はすべて偶然である、という考えがなんとなく好きだ。たとえば、ちょっと前に流行ったメイヤスー。
いかなるものにも、今あるように存在し、そのようであり続ける理由はないのであり、すべては、いかなる理由もなく今そうであるようではなくなりうるのでなければならない、そして/あるいは別様になりうるのでなければならない。
(カンタン・メイヤスー, 『有限性の後で』, 人文書院, 2016)
最近読んだ形而上学でも、自由意志論のところでこういう話が出てくる。
これは『〈子ども〉のための哲学』の感想を書いているときも思ったのだけど、こういう話ひ惹かれるのは、自分の生まれにかかわる話なのかもしれない。今書いているその記事にうまくその話を差し込めないのでいまここで軽く言及しておいた。
『論理哲学論考』だけでなく『哲学探究』のほうもちょっと読んでみたいと思ってしまったのはだいぶ困った。まあでも、とりあえず最後に一冊読み終えて、ブログもちゃんと書いたので、私の年末年始はこれでおしまい。