永井均『〈子ども〉のための哲学』を読み終える。『哲学の教科書』(中島義道/講談社学術文庫)と同じように、他人が当たり前だと信じて疑わないことに、どうしても引っかかって考え続けなければ気が済まないような、そういう意味での「哲学」のやりかたを教える本(本文中にも言及がある)。
私の両親は再婚同士である。大学生の頃にそのことを告げられたとき、最初に感じたことは「じゃあ自分は生まれてこないはずだったんだな」ということだった。まだ離婚することに対する風当たりがもっと強かった時代に、もし、両親ふたりとも、その普通でないことを受け入れていなければ、間違いなく自分は存在しなかった。そう考えると自分という生き物の存在がとても不確かなものに思えてきた。
いや、生まれてきたのはたしかにこの身体だったのかもしれない。でも、果たしてそれは「自分」なのか――違う親、違う家、違う環境。あの時に考えていたことって、この本の前半で言う「ぼく」と〈ぼく〉の違いに関することだったのかな、と思いつつ、そんなことについて考えていた大学生の頃を思い出して胸が苦しくなった。
結局そう考えていたことに決着をつけないまま、就活だの上京だのでそれどころではなくなってしまった。生存に対する執着のなさは明らかにこの「生まれてこないはずだった存在」というところから発生していることは確かだと思う。どうせ正常な世界であれば最初からいなかったのだ。しがみついて生きることもない。そうやって生きていると別にいつ死んでもいいなと思いながら生きるようになっていた。日本国内の鉄道はすべて乗り終えてしまったし、他に特にやりたいこともない。無理に生きることなんてない。死んでいいなら死んでいいと思っている。でも、それは「よくない」とされている。なぜなのか。なぜ死にたいと思っている人は死んでは「いけない」のか。そんなことを考えてばかりいる。生まれてきてしまった人は、なぜ生きなければならないのか。
ああ、そうだったのか、という過去形の納得が起きれば、そこで哲学はひとまずは終結する。そのときになってはじめて、自分が何を追い求めていたのかがわかる。
(永井均, 『〈子ども〉のための哲学』, 講談社, 1996*1)
哲学の本ばかり読んでいる理由をずっと「わからない」と書いてきた。でも、たぶん、自分のなかで何かを納得しない限り、それはきっとわからないのだ。でも、少なくとも哲学の本は、単なる知識欲のために読んでいるのではない。そこから考えるために読んでいる。もし単なる知識欲で読んでいるのだとしたら、たぶん哲学者の思想を紹介する本や、思想史の本ばかりを読んで終わっているかもしれない。こういった哲学者が「哲学している」本を手に取ったり、形而上学の方法論の本なんか手に取って読んだりはしないだろうと思う。何かわからないけれど何らかの結論に達したくて、そこにたどり着く助けになると信じて読んでいる。
もし自分のなかに哲学することへの欲求というか、内的必然性というか、要するに問題があるならば、たとえ他人が理解してくれなくても、まったくひとりであっても、ずーっと考え続けてみることができるし、そうしてみるべきなんじゃないか、ということに尽きる。
少しおおげさに、そしてむずかしく言えば、それは世の中的な価値は持たないかもしれないけれど、自己の〈奇跡〉的存在に呼応するような、いわば存在論的な価値(=大切さ)は持ちうるのではないか、とぼくは感じるのだ。
(同掲書)
内的必然性。昔短歌や詩を作っていて、全国紙に何回か短歌が載るぐらいやっていたけれど、創作をするということにそれこそ必然性というものを感じられなくて、自然にやめてしまった。空っぽの自分の外側で、無理に詩や短歌を作っている気がした。
創作とは違って、考え続ける必然性が自分のなかに感じられているのかな、と思う。今のところは。飽き性だということはわかっているから、いつまでも続くとは毛頭思っていない。これが自分に合っている、とは思わない。でも、子供の頃、いま目の前で起こっていることは全部夢で、ある朝起きたら自分は今とは全く別の家族の下で別の生活を送るんじゃないかとか、死んだら視界が真っ暗で何もできないまま永久に過ごすのではないかとか、あの時ああいう選択をしていたら、今ここにはそういう選択をしていた別の世界が存在したのではないかとか、いつもではないけど時折そんなことを考えるような人だったから、あながち間違っていないのかもしれない。でもやっぱりいつか飽きるんだろうけど、まあ飽きるまでは読んで、考えていくのだろうと思う。