未来はスーパーの買い物を考えるのに必要な献立をつくるぐらいの長さがあれば十分だと思う
自分の生存にあまり興味がないからか、将来起こるであろうことに対する想像力、というものが昔から欠けていた。だからオセロは弱かったし、「将来の夢は?」と訊かれてもただ答えに窮するだけだった。ただ流されるまま受かった高校に行って、受かった大学に行って、採用をもらった会社で働いている。行きたい業界もなければやりたい仕事もなかった。やりたいことなんてなかった。なりたい自分もなかった。
だから別にもうこの世界に生きている必要なんて、両親を見送ったらもうないんじゃないかと思うことがある。しかし、この世に生まれてきてしまった以上、それを自ら降りる自由だけは日本国憲法は保証してくれない。その証拠に刑法202条には自殺幇助という罪が定められている。この刑法202条の規定が憲法13条に違反するのでは、という議論が自殺幇助の観点からされないのは、たぶんその訴えを提起すべき人がその時点で既に死んでいるからだろう。
今でもあまり何年後にどうなっていたいとか、何歳で何をしていたいとか、そういうことを考えないし、考えたところで何も浮かんでこない。明日が今日と全く同じ条件でやってくる保証なんてどこにもないのに、どうしてみんなそんなことが想像できるのか。それよりも1日1日を積み上げて生きていくほうがまだ健康的なのではないか。昨日これができた、だから今日はこう生きる、そこまで崇高な思想を持って生きてきたことはないけど、未来なんてせいぜい、スーパーに買い物に行く分の献立を考えなければならない長さぐらいで十分で、そこから先のことなんて考えるだけ無駄だと思う。そして相変わらずやりたいことなんてなくて、決して良いとは思わないけどそこまで悪くもない毎日を繰り返している。