好き、というのは状態ではなくて瞬間。

「お前に人を好きになるという気持ちがあるとは思わなかった」

大学2年の頃、彼女できたんだ、という話をサークルの同級生に言ったらこう返された。ああやっぱり自分ってそういうイメージなんだなと思ったけど、自分でも「人を好きになる」という感情が芽生えるとは思わなかったし、その彼女と別れた後、人を好きになる、という感情が起こったこともない。

当然、自分を好きになってくれる人がいる、とも思ったことがなかった。モテたいとか思ったことは全く無かったし、友達すら積極的に欲しいとも思わなかったのはやっぱり狂おしいほど一人が好きだったからだと思う。それでも親しい人は何人かいたけど、中学を卒業したら、高校を卒業したら、大学を卒業したらもうそれきりだった。Twitterのアカウントを知っている人はフォローをしているから、学生時代の同級生でも、インターネットで知り合った人でも、同じ「SNSのフォロワー」ぐらいの感覚。そう書くとなんか心が無いとか思われそうだなと思ったけど、別にリプライやDMのやり取りがあればするし、「いいね」をつけたりだってする。それは同級生だった人でもそうでない人でも同じで、他人との距離感なんてそれぐらいでいいのではないかなと思う。オーケストラやってる友人とは演奏会で年1回会う。人に会うなんて多くて数ヶ月に1回ぐらいがちょうどいいのではないか。

いつも特定の人のことばかり考えていないといけないのは息苦しい。だからずっと一緒にいる人のことは異性に限ったことではないけどいつの間にか嫌いというか厭わしいと思ってしまう。だからもしこれから誰か他の人のことを好きになったとしても、あとはただ嫌いになるしかない。そういう未来を想像してしまうと人を好きになることなんてもうできないし、結婚なんてしても、自分も相手も誰も幸せになることはない。

しかし人間に限らず、自分に「なにかを好きになる」という感情がそもそもあるのか、ということさえ疑問に思っている。自分が本心から好きなものなんてなくて、ただ「好きだと自分に思い込ませている」だけなのではないか。「好き」というものを「作り出しておく」ことで、他人と最低限のコミュニケーションをするために。青色だって、鉄道だって、書くことだって。そこに一貫して流れている軸のようなものはない。死に向かうだけの一方通行の人生のなかで、目についたものに手を伸ばして、飽きたらまたそっと手放してゆく。好き、というのは状態ではなくて瞬間。その時期、その瞬間を切り取ったようなな行為。今から10年前は詩や短歌を作っていて、年間10試合ぐらいは球場に行って野球を見る人だったけど、今はそのどれもしていない。そして10年後も、また今とは全く別のことをしていて、またそれを「好き」だと思いこませているのだと思う。