この街では誰もがみな御堂筋線に乗りたがる

「この街では誰もがみな御堂筋線に乗りたがる」、新大阪で新幹線を降りて御堂筋線に乗った時にそう思ったことがある。御堂筋線はすごい。東海道新幹線の新大阪、JR・阪急・阪神の梅田、近鉄・南海のなんば、大和路線阪和線天王寺を結ぶし、反対側の千里中央に行けば乗り換え1回で伊丹空港に行くこともできる。とりあえず御堂筋線に乗ればどうにかなる。どこかしらで知っている路線とつながっている。

ただ、新幹線で大阪に来ると、「大阪市内まで有効」という乗車券を持っていることが多い。だから実は御堂筋線に乗り換えることはあまりない。なんばに直接行きたいときぐらいかな。そして帰りも「大阪市内から有効」の乗車券を持っていることが多いので、市内の他の駅でJRに乗って、大阪で乗り換えて新大阪に向かうことが多い。だから中川家のネタでおなじみの「中津行きかーい」という経験をしたことがない。梅田の駅で新大阪に向かおうとするとだいたいいつも千里中央行きか、新大阪行きの列車がやってくる。

JRに乗って新大阪で新幹線に乗り換える最大のデメリットは改札外にある神戸フランツの店舗に寄れないことである。大阪府内の実店舗はここにしかない神戸フランツに、改札の外に出ることが許されない私は寄ることができない。神戸に行けば雨が降ろうが霰が降ろうが買いに行く神戸フランツの苺トリュフを目の前に、泣きながら淡路屋*1の駅弁を買って東京行きの新幹線に乗り込むのである。

 

*1:神戸の駅弁屋だが、新大阪や大阪にも店舗がある。

デパートの貸しレイアウトでは走らせる車両に気をつけよう

鉄道模型を半分ぐらい売った。半分ぐらいしか売らなかったのはリュックに入り切らなかったからで、残りの半分はまたリュックに入れて秋葉原に持って行って売ろうかと思う。出張買い取りはどうせ安くつくから使わない。

少し前に自分で小さいレイアウトを作ってから、それに似合うような車両しか走らせなくなってきていて、6両とか8両とか14両もある列車に関してはもう要らないなということになった。だから鉄道模型を全部手放す訳ではないけど、編成ものに関してはもう全部手放すつもりでいる。

箱に入って揃ったものだとだいたい買値の3~4割ぐらいで、箱から出した古い客車などは1両500円とかそんな感じだった。それで国産の18金の万年筆が1本ぐらい買えそうな値段になって、それがいいのか悪いのかわからないのだが、とりあえずものが減れば値段なんて正直なんでもよかった。

鉄道模型屋などに行くと大きいジオラマがあって、それを1時間あたりいくらとかで貸している店がある。場所的や予算的な都合でレイアウトを持てない人が車両を走らせていて、だいたい通勤電車を走らせている子供、または20両編成の貨物列車を走らせているマニアのどちらかである。私もレイアウトを作るまではそういうところでたまに走らせていた。

鉄道模型屋は昔はデパートの中にあって、ガラスケースの中に入ったレイアウトを走る列車をいつまでも眺めていたものだけど、いまはショッピングモールの中にあって、その貸しレイアウトが、ガラスケースの中のレイアウトを代わりのようなものになっている。したがってショッピングモールやデパートの中にあるような貸しレイアウトでは、そういうところに訪れる子供でもわかるような車両、たとえばJRの特急列車とか、その近所を走っている列車を走らせるべきであり、決して40年ぐらい前の古い私鉄の通勤電車だとか、寝台列車でもない旧型客車を普通のディーゼル機関車に牽かせたなんでも無い昔の山陰本線普通列車みたいな車両を走らせるべきではない。昔新宿の京王百貨店のレイアウトを借りているとき、線路上を走っているのがまさにそういう車両ばかりになっていた瞬間があり、レイアウトを眺めている親も子も走っている車両に全くピンときていない感じがしているのがこちらにも伝わってきて、なんとなく申し訳ない気持ちになったことがある。

信仰と垂直的なるもの

結局「やまと絵展」に3回も行ってしまった。結果的に四大絵巻、神護寺三像、三大納経を全部見るというミーハーな人になってしまった。平日の昼間よりか土曜の夜間開館のほうがよっぽど空いていたのは《鳥獣戯画》が丁巻だったからなのかは知らんが、さすがに18時に入ったら人が少なかった。18時に入って20時の閉館までいるというのはその辺に住むか泊まるかしないとできない芸当で、この辺に住んでいるうちにこういうことはしておくべきである。

第4期は三大納経よりも根津美術館所蔵の《那智瀧図》が目当てで、あの縦に長い画面をまっすぐ流れる滝の絵を見て「やっぱりニューマンだなあ」と思った。国宝指定のこいつが、奥村土牛が《那智》を描いた時に頭になかったはずがない。

仏教では死者のために卒塔婆を立てる。十字架はキリスト教のシンボルである。人間は垂直的なるものに世俗を超えたなにかを感じるのかも知れない。

「垂直的」といえば田村隆一である。

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない
田村隆一『言葉のない世界』)

しかしながら、これに関しては特に信仰どうこうではなく、単純に垂直的人間=「生きている」ということ、水平的人間=埋葬=「死」なのではないかという気がしている。詩を作るためには、あくまで射殺する側でなければならないからである。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
田村隆一『四千の日と夜』)

こうやってああこう言いながら連想ゲームをしていくのが楽しいのであって、別に私は論文を書いている訳ではないのでなにかを結論づけるつもりはない。結論が出ないから手帳もブログも続いていく。

日記のイデア

ニトリから今日荷物が届くと思ったら昨日だった。しかも不在票を見たらその時間はまだ家にいたはずである。だからおそらくインターホンに気づかずに寝ていた自分が悪いのだが、午前中指定なのに12時15分に来た向こうにも若干の落ち度はある(ない)。そして今日無事ちゃんと受け取った。

こんな寒い日の夕方近くになってわざわざ池袋に出てくる必要なんてあるのかと思いながら池袋に出てきた。15時30分過ぎという一番カフェが混む時間にカフェに行く必要があるのかとも思った。家の近くのカフェで読書して手帳を書いて、夕飯を買って帰ればそれで今日は終わるのに、である。でもニトリオンラインストアだと品切れになっているものが池袋のニトリには在庫しているので、それを買いに行った。ついでに鉄道模型のパーツなども買いに行ける。鉄道模型のパーツはブラックフライデーだからといって特別に安くなっている訳ではなかった。

純粋な日記なんて存在するのだろうか、と思った。というより「ただの日記」ってなんだろうか、という疑問が湧く。日記のイデアのようなものが形而上学的に存在するのだろうか。日付で区切られた欄の中に、その日付のうちに起きた出来事だけを書いたものが「純粋な日記」で、例えばその日起きていないことに関して書いたことを含んだらそれは日記ではないのか、しかしその日起きていないことに関して書いた、ということを書けばそれは日記であるのか。

いつの間にか寒くなった。気がついたら12月のほうが近くなっていた。11月は個人的には冬で、3月までずっと冬のつもりでいる。

宮脇俊三『時刻表2万キロ』

「日本の鉄道に全部乗る」ということがどういうことかわかってもらうために、宮脇俊三の『時刻表2万キロ』を読んでください、というときがある。今から40年以上前、JRの前身、国鉄がいちばん日本のすみずみまで路線を巡らせていた頃、中央公論新社の役員を務めながらそれに全部乗った記録である*1。40年以上前と時代は全く違えど、やっていることは今と全く変わらない。突き詰めれば、「鉄道路線に乗るだけ」なのである。乗って、乗り換えて、日が落ちたらそこで泊まって、せいぜいそこで酒を飲むぐらい。行き止まりのローカル線では終点についたらどこにも行かずに、今乗ってきた列車に乗ってそのまま引き返していく。時刻表に書かれていないことを読み取って、組んだ予定がうまく行けば一人悦に入り、逆にダイヤの乱れで普通に乗れるはずの列車に乗れなければ一人で落ち込む。同じことをやっている人にとってはごく当たり前のことなのだが、普通の人にとっては新鮮に映るらしい。「乗りつぶし派」の人がどういうことを旅先でしているのか、普通の人が移動の時間としか考えていない時間しか存在しない旅行とは一体どういうものなのか、この本を読めばおわかりいただけると思う。

日本の文学史上にはもうひとり、鉄道に乗って酒を飲むだけの紀行文を書いた人がいる。以前書いた内田百閒の『阿房列車』シリーズがまさにそうなのだが、百閒にはヒマラヤ山系というお伴がいた。しかし、宮脇俊三は基本的に一人旅だ。それに百閒は基本的に幹線を走る特急の一等車にしか興味はないし、何より日本の全ての鉄道に乗ったわけではない*2

しかし、この2人に阿川弘之を加えた3人で、鉄道に乗るだけの紀行文は、もうやり尽くされてしまったのではないか、と思う。素材、文体、乗るだけという純粋度、あらゆる点において、である。だから、後世の人たちは、「乗る+何か」という、悪く言えば、「ただの鉄道を使った紀行文」を書く他ない。

*1:ただし、この本に書かれているのはその最後の1割に乗るところであるが、それでも2000キロ以上分ある

*2:津軽海峡の機雷が怖いという理由で北海道に行ったことがない。しかし、台湾には行っている

みんな若冲が大好きだね。

美術館はだいたい夜間開館に行くか休みを取って平日に行くのだが、11月にオープンしたばかりの皇居三の丸尚蔵館だけは祝日の昼間に行った。完全事前予約制で売られるチケットは平日だろうが土日だろうが全枠完売だから、逆にわざわざ休みを取る必要もない。

全枠完売してしまう理由の一部を伊藤若冲の《動植綵絵》に求めるのは乱暴だろうか。現在行われている2つの展示の1つ「皇室のみやび―受け継ぐ美―」の第一期は8点が展示されており、そのうちの4点が《動植綵絵》だから「50%若冲」とも言える展覧会である。

みんな若冲が大好きだね。事実一番賑わっているのが若冲である。去年のメトロポリタン美術館展で来たフェルメールよりかはマシだったけど、みんな《南天雄鶏図》の前にいる(相対的に《秋塘群雀図》は空いていた)。しかも写真撮影が可能だからみんな写真を撮っている。中には超ちゃんとした一眼レフで写真を撮っている人までいる。私も若冲を見に来た訳ではない、といえば嘘になる。細かく書き込んでいるのはアンリ・ルソーみたいだと思った。でも私はそのいわゆる「超絶技巧」ではなくて、縦長の画面を対角線の方向に視線の導線を作っているのでは、ということばかりが気になっていた。

しかし小野道風は誰も見ていなかった。たぶん日本美術の本において「書跡」なんてほんの軽くにしか触れられていないし、何をどう見てよいのかわからない人が多いだろうし、どちらかというと「美術」ではなく「書道」のカテゴリの人が見ると楽しいものなのだろうと思う。

同時開催の「令和の御代を迎えて―天皇皇后両陛下が歩まれた30年」は天皇陛下ゆかりの品の展示なのだが、御即位に各方面から献上された品を見ているとたかだか5年前のものなのにすっかり東京国立博物館の近代美術の展示を見ているような気分になった。あれは明治のものです、と書いてあれば信じてしまうだろう。

展示はこれだけなので1時間ぐらいあれば十分見られる。というのもまだ第1期工事が終わったばかりで、フルオープンは3年後らしい。だからまだミュージアムショップの類もない(宮内庁三の丸尚蔵館ミュージアムショップがあったかどうかは知らない)。眼の前にある東御苑の売店ミュージアムショップの代わりのようになっている。

若冲を見に来た訳ではない、といえば嘘になる理由として、展示替え後にもう一度ここに行く予定でいる。

Hontoポイント経済圏

hontoポイントが5倍になったので、また本を阿呆のように買ってきた。相変わらず美術とか哲学とかの本で、小説とか随筆の類はまったくない。寧ろ最近買った内田百閒の『蓬莱島余談』*1をあまり面白いと感じなかったので、百閒もそろそろ潮時なのかもしれないと思ったぐらいである。読みたいと思ったら今度は電子で買えば良いのである。

しかしこないだのhontoポイント5倍クーポンで買った本がまだ読み終わっていない。これだけ阿呆のように買い込んだらまた次のhontoポイント3倍とか5倍までに読み終わらないのではないかという気がするが、そんなことを気にしてはいけない。いつ今日買った本に関係するジャンルに飽きるかわからないからである。事実買った直後に飽きて全く読んでない本などが普通に存在する(立ち読みした時は面白そうだと思ったのである)。

またそういう事態の防止のために文具を買ってポイントを貯めるという手段を取ることもできるのだが、今回は残念ながら文具は対象外である。

最近はやたらと東博や陶磁器関係の博物館に行く関係で陶芸だの山水画だのの本を読んでいるのだが、長く傍に置いておきたい本というのは入門の本ではなくて理論とかもっと小難しい本の類ではないかという気がして、何故かは知らんが折に触れて『造形思考』を読み返している。自分が絵を描いたり何かをデザインする訳ではないのだけれど。

*1:発売は去年の1月である