「コスパが良い」の「パフォーマンス」は誰にとっての「パフォーマンス」なのか

インスタのリール動画で「寿司ネタの原価率一覧」みたいな背景が動いているだけの静止画が流れてきて、効率主義もついにここまで来たかと感慨深くなった。タイパ・コスパ世代でもっとも意識が高い人は回転寿司に行って原価率で食べるものを選ぶのである。すなわち選択の基準は消費者のなかには存在せず、その外側に存在する。

コスパ抜群」「タイパがいい」などという形容詞を店紹介の動画で見ない日はないのだけど、パフォーマンスの部分、経済学で言うところの「効用」というべきところが、その値段や時間を除する数のほうは各個人で違うはずなのに、除された後の数値があたかも普遍的価値を持っているような世界になっている気がする。

まあそういう世界だからといって別に私が困る訳でもない、2000円とか3500円ぐらいする本をひどいときには2ヶ月ぐらいかけて読むなんてタイパコスパ世代からしたらあり得ない話だと思うけど私はするし、何かを書くときは5万とか6万する万年筆に50mlで2000円もするインク*1を入れて100枚550円もするシステム手帳の紙に書いていく。その代わり1本数千円~2万円ぐらいのシャープペンとかボールペンのために文具屋に並んだり抽選したりする時間はないし、それを買う金もない。

honto withがサービスを終了するという。蔵書管理はnotionを使っていてwishリストは手帳に書いている私に隙はなかったのだが、在庫確認ができなくなるのは困る。やはり同じような点で悲鳴を上げているユーザーが多いのだが、一番困るのはhontoカードの部分ではないかと思う。そのことを指摘しているユーザーを見かけなかったのだけど、みんな紙のhontoカード使ってるんですか?

*1:ただし50mlあれば普通に2年ぐらいは持つ。

身体が美術展を欲している

本当は来週行くつもりだったけど来週のほうが天気があまり良さそうでなかったのと、なんか美術館に行きたい気分だったので根津美術館に行ってきた。西洋美術館で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見たのが最後だったので別にしばらく行っていなかった訳ではないのだけど、でもなんか行きたかったので行くことにした。一応展覧会を称してはいるけれど要するに尾形光琳の燕子花図屏風を観るための会で、たぶん客もそれが目的だし、あとの理由は後付だろうと思う。美術館の側もたぶんわかっていて燕子花図屏風が一番神々しく展示されている。もともと燕子花図屏風が神々しいのかそういうふうに展示しているのかはわからないけれど、明らかに他の屏風絵とは雰囲気が違うのは、余白を埋め尽くした金箔と半ば幾何学模様と化した青と緑のリズムとリフレインだろう(こう書くと音楽みたいだ)。

6つある展示室で燕子花図屏風と関連付けて展示しているのはそのうち2つだけであとは全く関係ないのだけど、アンデスの染織が意外と面白かった。古いものだと紀元前のものがあるのだけど紀元前とは思えないぐらいデザインデザインしているし、デフォルメは面白いし、なんかキース・ヘリングみたいな謎のキャラクターもいる。あと中国の青銅器はどいつもこいつも面白い模様と形をしていて興味深い。ショップでそればかり集めたカタログも売られていたのだけど、カタログの写真になると現物を目の前にしたときの重厚感と威圧感がなくなって魅力が3分の1ぐらいになるので買わなかった。

そのショップではちゃんと燕子花図屏風の左隻と右隻を両方横長の大判ポストカードで売っていて、これはA4版2ポケットのファイルに見開きで入れれば展示と同じように鑑賞できるぞと思ったのだが、家に帰ってファイルに入れたら横幅がA5版より多きいのでA4版2ポケットのファイルには入らなかった。

庭園のカフェは激混みだったが茶室でお茶を頂けるらしかったので頂いてきた。カフェはいつでも開いているが茶室はいつでも開いている訳ではない。器に入った抹茶を飲むという経験はこれからやきものを鑑賞するうえで絶対に役に立つはずなのだ。しかし一応来る前にドトールで軽くジャーマンドッグを食べてきたとはいえ、カフェでちゃんと昼食を摂ろうと思っていたので出る頃にはすっかり腹が減っていた。15時前の表参道、食事をできる店が混んでいない訳がない。

 

キャラクターへの執念

本屋の絵画技法の本棚に行ったらミニキャラの描き方の本というものを見つけて、これが1冊でなく、類書が複数出ている。つまりそれだけミニキャラを描く需要があることであって、逆を言えば類書が数えられるぐらいしか出ていない程度の需要しかしないということでもある。

ぱらぱらとめくって見て、これぐらいのデフォルメ感のものが描ければいいんだよな、と思った。体格とか顔の輪郭とかでキャラクターの描き分けができないというかそこまで考えるのが面倒くさいからやらなくていいと思っている私にとって、せいぜい1.5~2.5等身の大きさで、体のパーツの輪郭もキャラクターによってほぼ差がないミニキャラという概念はちょうどいい。それまで何冊かイラストの技法書的な本は買ってみたけど、別に構図がどうとか背景がどうとかあるいは人体が解剖学的にどうとかいうのはやっぱりどうでもいいんだよなとしか思わなかったけど、ミニキャラならそういう「細かい」ところまで練習したり勉強したりする必要がなく、そのうえでキャラクターごとにどうやって差をつけていくかなんて考えなくていい。ただ対象を円筒、球、円錐で捉えればよく、残りの時間を美術の本とか哲学の本を読む時間に充てられる訳だ。

別に絵に物語なんていらない。ただ単純に「キャラクター」が描ければいいんだろうと思う。昔小説のようなものを書いていたときも、今考えると書きたいのは「物語」ではなく、「場面」であったり「キャラクター」そのものだったのかもしれない。

なんだかんだで小学生ぐらいの頃からキャラクターのイラストを描いているけれど、イラストの技法書なんて買ったのはここ1年ぐらいの話で、それまではただ単純に既存のイラストを見様見真似で写してきただけである。「ただ可愛いキャラクターを描きたい」という執念だけがそのモチベーションを支えていた。キャラクターへの執念。

思ったよりも疲れている

電車を降りて家まで歩く間に無性に栄養ドリンクを飲みたくなるので思ったよりも疲れている。しかしほろよいが110円なのにレッドブルは220円もするのが解せない。行政書士の勉強をしていた頃は毎日のようにレッドブルだのモンエナだのをぶち込んで3時間ぶっ通しで勉強するという無茶をしていたのだが、今は別にそこまでしなくてもいいなと思ってリポビタンDやらチオビタやらを飲む。しかしリポDチオビタの類は何等かの試験の開始30分前に飲むのがルーティーンだったので、仕事が終わった後なので何等かの試験会場の雰囲気を思い出す。

ウィダーinゼリー(今はウィダーinゼリーと言わないらしい)みたいなゼリー飲料にローヤルゼリーが入ったやつを見つけた。ゼリー入りゼリー。この二重構造。今のところ私の近所ではトップバリュプライベートブランドのそれしか見たことがないのだけど、森永のinゼリーにもあるらしい。しかしおなじみのエネルギーとビタミンと鉄分とプロテインしか私は見たことがない。猿田彦珈琲チルド飲料は置いてあるんだけどな。

受験の頃といえばやたらとGABAのチョコレートを食べていた。なんでかは知らない。GABAのチョコレートといえばもう一つ思い出があって、北海道新幹線が開業する1ヶ月前、2月の夜中の青森駅ニューデイズで、これから乗り込む「はまなす」の寝台で食べるために買ったお菓子が何故かGABAだった。なぜGABAだったのかもわからないし、どうしてそんなことを覚えているのかもわからない。「サンライズ瀬戸・出雲」についているような個室ではない、昔ながらの「寝台車」に乗ったのはこれで最初で、これが最後だっただからだろうか。

外は吹雪で、ものの数十秒歩いただけで服が雪まみれになった。そうまでして写真を撮ったあの「あおもり」という文字が赤く浮かび上がる駅舎は、もうない。調べたら、青森駅は今年全ての工事が終わって全面オープンするという。

隙間に落ちて宙ぶらりんになった言葉たち

鈴木大拙の『禅の思想』を読んでいたら知らない単語がたくさん出てきたので電子辞書で調べたら全く引っかからなかった。国語辞書を4つ、漢和辞典を1つ、百科事典を3つ、日本史事典を3つ、季語事典も2つ搭載しているのにヒットするのはひとつもありませんという。そこで仕方なくGoogleで検索したらその言葉を使用している用例はヒットすれどその用語そのものの解説は出てこない。たぶん仏教用語事典の類を引けばたぶん載っているのだろうが、使う側にとっては当たり前すぎて説明するまでもなく、かといって全くその世界を知らない人には知る必要もない言葉。その間で宙ぶらりんになっている言葉。

「リバースフォースダブルプレー」とか「インジェパーディ」って別に野球知ってる人なら別にわざわざ説明するまでもない言葉だけど*1野球知らない人にはそれがどういう概念なのかのイメージもつかないだろうと思う。しかし野球の用語の違うところはインターネットで調べるとちゃんと出てくるところである。

フォースプレーは打者が走者となった結果、塁上の走者が規則によって塁の占有権を失った結果起こるプレーのことなので、タッチプレーではないアウトのことを全て「フォースアウト」と言うのではない。ピッチャーへの送りバントをピッチャーが打者走者にタッグしてアウトにしたらタッグアウトではなくフォースアウトであるし、打者二塁でショートライナーに二塁走者が飛び出したため、遊撃手が二塁に送球して二塁走者をアウトにしたらタッグはしていないけどフォースアウトではない。これは案外野球をやっている人でも間違える。間違えるから「ルールブック盲点の1点」がたまに起こる。

*1:ただしこれらの単語を出す必要がある文脈に辿り着くことはたぶん殆どない。少なくとも私は一度もない。

花見も嫌い

バーベキューが嫌いだからもちろん花見も嫌いである。結局のところ人間は何かと理由をつけて酒が飲みたいだけであって、つまりただ酒を飲みたいだけである。

ゴールデンウィークはどこに行っても混んでいるのだが、青春18きっぷは使えないので普通列車は空いている。だから普通列車に乗り続ける旅をやるのに実は向いている。ただ、鉄道旅行全般に向いている訳ではない。観光列車は混む。指定席はネットで取ればいいとして、ネットで取れない列車を取ろうとしたり、あるいは一度取った席を変更しようとするとさあ大変である。ちょうどゴールデンウィークの指定席の発売開始日がちょうど通学定期を買おうとする人の混雑のピークと重なり、ただでさえ減りまくっているみどりの窓口が更に混む時期にみどりの窓口に突っ込んでいかなければならない。

だから指定席を買ってはいけない普通列車に乗るだけの旅行をするべきである。ところが普通列車に乗るだけでも、あまりに変な経路の乗車券を作ろうとするとやはり窓口に行かなければならないから、やっぱり鉄道旅行なんてやってはいけないのかもしれない。JR九州の「ぐるっと九州きっぷ」とか「旅名人の九州満喫きっぷ」、「四国フリーきっぷ」とかのゴールデンウィークも使えるフリーきっぷ*1を使うべきである。それでモトが取れるかどうかと言われると怪しいが、窓口で死ぬほど並ぶ時間とどちらを取るか、という話である。

ちなみに私は別に列車に乗りに行く訳ではないのだが、前科があるので「何に乗りに行くんですか?」と訊かれるが、特に何かに乗りに行く訳ではない。乗ったことがないものに乗る訳ではないし、行ったことがないところに行く訳でもない。行きも帰りも飛行機である。

*1:ちなみにJR東日本の「週末パス」はゴールデンウィークは使えない。

掃除の時間のBGM

小学校や中学校で掃除の時間にBGMが流れていたのはなぜなのだろう。小学校の頃、掃除の時間に音楽が流れ始めた時は姫神の「見上げれば花びら」で、途中からシューベルトの「ます」に変わったし、中学校ではエレクトリカルパレードだった。どっちも選曲意図を問い詰めたい。でもどうせ「曲の長さが決められた掃除の時間にぴったりだから」とかそんな理由なのだろう。

しかし掃除嫌いの私が家で掃除をするときのBGMに相応しいのはやはり大日本帝国時代の軍歌をおいて他にない。これぐらいの曲を以て身を奮い立たせ、やらねば死ぬぐらいの覚悟で望むしかない。

天に代わりて不義を討つ
忠勇無双の我が兵は
歓呼の声に送られて
今ぞ出で立つ父母の国
勝たつば生きて還らじと
誓う心の勇ましさ
日本陸軍

 

敵の亡󠄁ぶる夫迄は 進󠄁めや進󠄁め諸󠄀共に
玉散る剣抜き連󠄀れて 死ぬる覚悟で進󠄁むべし
(抜刀隊*1

いい。掃除が嫌いな人にとって、掃除とはこれぐらいの覚悟で望むものである。なんと相応しい歌詞に勇ましいメロディーではないか。

ただ、こういう曲をBGMに風呂掃除や換気扇の掃除をしていると、ふと「ああ”戦意高揚”ってこういうことなんだな」と思い、なんとなく戦争を正当化させられていく様子を疑似体験しているような気がしてきて、なんだか複雑な気分になる。

そしてこんなもんを学校を掃除の時間に流したらすぐさま教職員団体が放送室にすっ飛んできそうだ。だからエレクトリカルパレードぐらい底抜けに明るい曲ぐらいでちょうどいいのかもしれない。

*1:「抜刀隊」が作られたのは西南戦争の時であるため、「敵の大将たる者󠄁は 古今無双の英雄で」と歌われている「敵の大将」とはもちろん西郷隆盛のことである。しかし掃除は内戦ではないので立ち向かうのは別に英雄でもなんでもない。