「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見てアーティストになろうと思う人が現れるか?

国立西洋美術館というほぼポスト印象派ぐらいまでの西洋絵画しか集めていない美術館が日本の現代アートという全く重ならない領域の展覧会をやるということで楽しみにしていた。開幕前日の内覧会で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」という問いかけを題した展覧会の、それとは関係のない原因で軽く炎上していたのでますます楽しみになった。

西洋美術館が自らに問いかけるとともに、「美術館とは何か?」「現代アートとは何か?」ということに加え、「『私たち』とは何か?」「公共性とは何か?」というもっと大きな問いを投げつけるものであった。しかし普段美術館に行くのと全く違う頭を使った。田中功起は美術館への提言それ自体が作品であり、小田原のどか、布施琳太郎、山本浩貴の結構な長さのある論考やエッセイを平気で壁に貼り付け、弓指寛治は絵とともに山谷での聞き取りを30ページ程度にして綴り、まるで本を1冊読んだようである。西洋美術館の特別展示室ってこんなに作品を詰め込めるのか?というぐらいに作品は詰まっていたし、作家ごとにそれぞれのコンセプトを体現すべく展示空間を作り込んでいく、というのも西洋美術館ではなかったことだと思う。

布施琳太郎の作品はまた青かった(金沢21世紀美術館イヴ・クライン展にも布施の作品は出展されており、やはり青かった。彼もまた青を重要視するアーティストなのかもしれない)。文字を映し出すインスタレーションであったが、内容は言葉による世界の認識、言語行為や偶然性といった、ポストモダン~思弁的実在論の話をしていると思われ、ちょうどいま現代思想の本を読んでいたのでその青い空間と一緒に印象に残った。

オラファー・エリアソン展を見ていても思ったのだが、3次元の空間いっぱいを使った作品や映像作品を見た後だと、どうしても絵画作品が「物足りなく」感じてしまう。しかし目を向けていれば勝手に情報が入ってくる映像や身体を置いていれば勝手に空間が表現してくれるインスタレーションに対し、能動的に「見る」という行為を求める絵画への、私の怠惰かもしれないとも思った。

「4時間ぐらいかかる」というツイートを見たので、本当にそうなのかと思ったら本当に4時間ぐらいかかった。普段だったら17時ぐらいに美術館に入るのだけど、深川めしを食いに行った関係で13時過ぎに入ったのだけど、正解だった。17時に入っていたら10分以上あるミヤギフトシや遠藤麻衣の映像作品は全部見きれなかっただろう。

当初もうひとつ楽しみにしていたことがあって「一体何のグッズを出すのか?」と思っていたら、展覧会のグッズと呼べるものはクリアファイルとトートバッグと図録しかなかった。図録はA5サイズしかないうえ、中を開いてみると紙面で図版より文字が占める割合のほうが多い。こんな図録は初めてだ。コンセプチュアルアート展ですら紙面の中の割合という意味で作品の画像のほうが大きかった。しかしよくよく本の解説を見ると「インタビュー集」としか書かれていない。だからこれは図録ではなくてただの芸術の専門書なのかもしれない。