図録を読み終えた

『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』の図録を読み終えた。図録に読み終えたという言葉を使うのは初めてだけど、眺めるというより読むという動詞のほうがふさわしいし、読み始めると読み終えるという単語を使うのがふさわしい。

現代美術は潜在的に反権力であり、リベラル寄りの思想を持っていることが多い。しかし政治的信条の違いをストレートにただ主張するだけでは、それは美術ではなく政治運動そのものになってしまうおそれはないだろうか? アーティストが政治に言及すること、そしてアート・アクティヴィズムの重要性は疑う余地がない。であるからこそ主張に対して賛成か反対の二択、あるいは署名で応答する以外の選択肢をつくることこそが思想の異なる市民、そして潜在的な観客に対して真の波及力を持つのではないだろうか。(梅津庸一「ここは東京藝大系および、美大教員系アーティストたちが眠る部屋なのか?」, 284P)

一般書店より先行して会期当日には既に美術館内で発売されていた「図録」であるが、すでにその会期前日に起こったことに対して示唆的なコメントを梅津庸一が寄せている。要するにあれは作品でもパフォーマンスでもなく、ただの「政治運動」だったのだろう。この図録の当の作家のコメントを見てもそうなのではないかと思う。アートで政治するのではなく政治する。これはアートの側からの政治への呼びかけではなく、政治の側からのアートへの呼びかけだった。このニュースに対しSNSで反応した人の一体何人がこの展覧会に訪れただろうか、あるいは訪れようと思わせただろうか。

しかし何もまとまっていない状態でこれ以上この問題に言及すると炎上するやつなのでやめておく。

アーティスト、キュレーター、批評家、ジャーナリストなどの多くはリベラルもしくは左翼であり、彼ら彼女らはグローバル資本主義を批判するが、実は日々の糧をそこから得ている者が少なくない。(小崎哲也『現代アートとは何か』)