Gänzlich ersterbend.

時間がゆっくりと流れていく。ただ長いだけの一週間。人間はたぶん満員電車に乗るのが下手になったと思う。ドアまで目一杯に埋まった人間に向かって肩からタックルして更に真ん中まで押し込む覚悟と勇気のない奴は発車メロディーが鳴り終わった電車に乗ってはいけない。大人しく次の電車を待つべきであり、後ろに並んだ奴に黙って後ろから押し込まれればよい。新社会人の皆さんに教えたいことといえばそれぐらいであり、もう入らないと思っても重心を低くして肩から入るように押し込めば入る。肩で押し込んだのにこれは乗れないからあきらめよう、という感覚を早く身につけることが、周りの客に迷惑をかけず、かつ自分が乗りたい電車に乗るコツである。朝はみんな後ろに始業時間や打ち合わせの時間を抱えているので、案外無理に押し込んでも何も起こらない。

あとは15~20分に1本程度の郊外の電車ならだいたい毎朝乗っている顔ぶれは同じであるから、どの顔がどの駅で降りるかを早く覚えること、顔が覚えられなければカバンを覚えること(仕事に使うカバンはだいたい同じである)。10分以下の間隔だといつも同じ顔ぶれだとは限らないので、自分の最寄り駅だけでなく途中駅の階段の位置を把握すること(どの駅でどの車両の客が降りるか把握する)。混んでいる車両は混んでいるときと空いているときの差が激しいこと、相対的に空いている車両は混雑度がずっと変わらないことなどを把握すること。あとはすぐ降りそうな人の仕草や前に座っている人が立ち上がった時に横に立っている人に席を奪われないテクニックなどを覚えるとなおよいが、これは教えると私が座れなくなるので教えない。

AKBグループに「木村」という名字の人が在籍していたことは(多分)ない

4月1日になるとジャケットの下にセーターを着なくなるかコートを羽織らなくなるかを考える。3月31日までなら何も考えずにどちらも着ていくのに、4月1日という日付が、急にこれらのことを考えさせる。3月はやはり冬であって、それを着ないという選択肢がない。そういう意味においてだけ、カレンダーというものが意味を成す。

学生の頃はエイプリルフールのときに何をやるか考えていたけど、気合を入れてちゃんとネタを仕込んで当日に望んだのはせいぜい1~2回ぐらいで、それ以降は前日か当日に適当に考えてツイッターの投稿をするとかしたぐらいだと思う。昔は企業公式のエイプリルフールのネタをまとめたページを見てゲラゲラ笑っていたのだけど、いつの間にかそんなこともしなくなった。たぶん社会人になってからだと思う。3月31日と4月1日はそういうのを見てゲラゲラ笑っている余裕はない。3月31日の終業後からがいちばん忙しいのである。

AKBINGO!で昔やっていた「AKBグループが大勢集まる収録にAKBっぽいけどAKBじゃない女の子を入れたら気づくのか」というドッキリが好きだった。その「AKBっぽい女の子」を選ぶためにわざわざオーディションまでやったうえで、偽名もAKBグループに存在しない名字のなかで一番世帯数が多い「木村」にするという力の入れようだった。単純に面白いだけだし誰も気づかない。その時の設定として「SKEの6期生」という設定だったから、今から10年ぐらい前だと思う。だからその時点でも、それから10年以上経ったけど、未だにAKBグループに「木村」という名字の人が在籍していたことはない。たぶん(全部調べた)。

はてなブログはトピックに美術鑑賞を持たないという構造的欠陥を抱えている

最近あまりに美術展の感想を書きすぎて雑談とか日記とは離れている感じがしたのだが、はてなブログはトピックに美術鑑賞を持たない。

クラシックのコンサートを聴きに行ったら音楽だし、絵を描いたら創作だし、映画館に行ったら映画があるが美術館はない。旅行先で美術館に行ったら旅行になる。旅をするように生きる、というトラベラーズノートのキャッチフレーズのような思考法であれば家から30分ぐらいのところにある美術館に行くのも旅行だという論理が罷り通るのだろうが、残念ながらトラベラーズノートを使っていない。180度開いてくれないのが心理的に受け付けなくて使えない。それで仕方なく日記・雑談みたいなところにいるので、純粋な日記を期待して読者になっていただいている方がいたら申し訳ない。

まあでもこのブログにはご覧の通りはてなブックマークのボタンもなければ読者になるボタンも表示させておらず、はてなの他のサービスに誘導しようという気がそもそもない*1。そのうえPROユーザーでもないからはてなに金をビタ一文も払っていない。だからはてなブログの制度批判をするには説得力がなさすぎる。

しかし美術評論などは大学だと文学部の哲学科とかで扱うらしいので、日記・雑談みたいなカテゴリでおおよそ間違っていないのかもしれない。確かに図録巻末の論考などを読むとアポリネールだのベンヤミンだのデリダだのサルトルだのボードリヤールだの、そういう単語が出てくるし、ちょっと「国民性」の話をするとすぐ『想像の共同体』を引っ張ってくる。ただ、あの有名な「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体《イマジンド・ポリティカル・コミュニティ》である」というフレーズは最初の30ページ目ぐらいに出てくるので、それしか引用していなかったら最初の30ページぐらいの「序」しか読んでいない可能性がある。「私『想像の共同体』ぐらい知ってます」アピール。でも文学部出てる奴は基本的にみんな読んでるでしょと思ったら別にそんなことはないらしく、なんでか知らんが政治学を齧ってた奴のほうに読んだ人が多いのはなぜだろう。政治学の本でしたっけ?

*1:このブログの内容を「共有」されたくないのである。

図録を読み終えた

『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』の図録を読み終えた。図録に読み終えたという言葉を使うのは初めてだけど、眺めるというより読むという動詞のほうがふさわしいし、読み始めると読み終えるという単語を使うのがふさわしい。

現代美術は潜在的に反権力であり、リベラル寄りの思想を持っていることが多い。しかし政治的信条の違いをストレートにただ主張するだけでは、それは美術ではなく政治運動そのものになってしまうおそれはないだろうか? アーティストが政治に言及すること、そしてアート・アクティヴィズムの重要性は疑う余地がない。であるからこそ主張に対して賛成か反対の二択、あるいは署名で応答する以外の選択肢をつくることこそが思想の異なる市民、そして潜在的な観客に対して真の波及力を持つのではないだろうか。(梅津庸一「ここは東京藝大系および、美大教員系アーティストたちが眠る部屋なのか?」, 284P)

一般書店より先行して会期当日には既に美術館内で発売されていた「図録」であるが、すでにその会期前日に起こったことに対して示唆的なコメントを梅津庸一が寄せている。要するにあれは作品でもパフォーマンスでもなく、ただの「政治運動」だったのだろう。この図録の当の作家のコメントを見てもそうなのではないかと思う。アートで政治するのではなく政治する。これはアートの側からの政治への呼びかけではなく、政治の側からのアートへの呼びかけだった。このニュースに対しSNSで反応した人の一体何人がこの展覧会に訪れただろうか、あるいは訪れようと思わせただろうか。

しかし何もまとまっていない状態でこれ以上この問題に言及すると炎上するやつなのでやめておく。

アーティスト、キュレーター、批評家、ジャーナリストなどの多くはリベラルもしくは左翼であり、彼ら彼女らはグローバル資本主義を批判するが、実は日々の糧をそこから得ている者が少なくない。(小崎哲也『現代アートとは何か』)

「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」を見てアーティストになろうと思う人が現れるか?

国立西洋美術館というほぼポスト印象派ぐらいまでの西洋絵画しか集めていない美術館が日本の現代アートという全く重ならない領域の展覧会をやるということで楽しみにしていた。開幕前日の内覧会で「ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?」という問いかけを題した展覧会の、それとは関係のない原因で軽く炎上していたのでますます楽しみになった。

西洋美術館が自らに問いかけるとともに、「美術館とは何か?」「現代アートとは何か?」ということに加え、「『私たち』とは何か?」「公共性とは何か?」というもっと大きな問いを投げつけるものであった。しかし普段美術館に行くのと全く違う頭を使った。田中功起は美術館への提言それ自体が作品であり、小田原のどか、布施琳太郎、山本浩貴の結構な長さのある論考やエッセイを平気で壁に貼り付け、弓指寛治は絵とともに山谷での聞き取りを30ページ程度にして綴り、まるで本を1冊読んだようである。西洋美術館の特別展示室ってこんなに作品を詰め込めるのか?というぐらいに作品は詰まっていたし、作家ごとにそれぞれのコンセプトを体現すべく展示空間を作り込んでいく、というのも西洋美術館ではなかったことだと思う。

布施琳太郎の作品はまた青かった(金沢21世紀美術館イヴ・クライン展にも布施の作品は出展されており、やはり青かった。彼もまた青を重要視するアーティストなのかもしれない)。文字を映し出すインスタレーションであったが、内容は言葉による世界の認識、言語行為や偶然性といった、ポストモダン~思弁的実在論の話をしていると思われ、ちょうどいま現代思想の本を読んでいたのでその青い空間と一緒に印象に残った。

オラファー・エリアソン展を見ていても思ったのだが、3次元の空間いっぱいを使った作品や映像作品を見た後だと、どうしても絵画作品が「物足りなく」感じてしまう。しかし目を向けていれば勝手に情報が入ってくる映像や身体を置いていれば勝手に空間が表現してくれるインスタレーションに対し、能動的に「見る」という行為を求める絵画への、私の怠惰かもしれないとも思った。

「4時間ぐらいかかる」というツイートを見たので、本当にそうなのかと思ったら本当に4時間ぐらいかかった。普段だったら17時ぐらいに美術館に入るのだけど、深川めしを食いに行った関係で13時過ぎに入ったのだけど、正解だった。17時に入っていたら10分以上あるミヤギフトシや遠藤麻衣の映像作品は全部見きれなかっただろう。

当初もうひとつ楽しみにしていたことがあって「一体何のグッズを出すのか?」と思っていたら、展覧会のグッズと呼べるものはクリアファイルとトートバッグと図録しかなかった。図録はA5サイズしかないうえ、中を開いてみると紙面で図版より文字が占める割合のほうが多い。こんな図録は初めてだ。コンセプチュアルアート展ですら紙面の中の割合という意味で作品の画像のほうが大きかった。しかしよくよく本の解説を見ると「インタビュー集」としか書かれていない。だからこれは図録ではなくてただの芸術の専門書なのかもしれない。

単純に深川めしを食べに来た人たち

家族*1深川めしを食わないかと誘われたので一緒に深川めしを食べた。家族とは店の前で集合しそのまま現地解散するとのことだから、単に深川めしを食べるために集まるようなものである。別に家の近所の店に行くわけではない。電車に30分ばかり揺られるようなところにある。家族の方も何をしに東京まで出てくるのかわからない。最近「抗うつ剤を飲んだ後で夜行バスに乗ったらどうなるのか」とか「生きていてもしょうがない」とかそういうことをブログに書いてばかりいるから、放って置いたらコイツは本当に自ら命を絶たれかねないと思われたのか、それとも誰の結婚相手を紹介されるのか、あるいは詐欺かのいずれかだろうと思って恐る恐る指定された店に向かう。家族は私の到着3分後にやってきたが幸い知らない人間はおらず、しかもこれより前に特にどこか特別な用事があった訳ではなく、この後は別行動をするという。つまり単純に深川めしを食べに東京に出てきたのであり、そして幸いブログの内容に関する言及はなかった。

去年も3月に中公文庫と中公新書の割引のクーポンが出ていたことはわかっていたので、今年もこの時期に出るだろうと思って中公新書のほしいやつは買わずに来ていた。ところが別に3連休でもないのにhontoポイントが5倍になるのは知らない。それはよくない。この週末で一体何冊の本を買ったのかは想像にお任せしたい。昔から頭が悪いので入門書の類を読まずにいきなり原著に突入してしまう。こういう癖がいまだに治っていないのだが、別に買ったからといってすぐ読まなければならない訳ではない。読むべきときに読めばいいのである。そういっていつ買ったかわからないベンヤミンをまだ積んでいるのだけど。そしていつか「源氏物語を読みたい」と思い、河出から出ている新訳を読みたいと思い続けているのだけど、当分そこには辿り着けそうにない。

*1:この場合の「家族」に父親は含まれない

銀河鉄道の傘

北陸新幹線敦賀まで伸びたから乗らなければいけないし、北大阪急行も伸びたから大阪に行かなくてはならない。大阪なら用事がなくても行けるけど、敦賀に用事はない。福井に2箇所行きたいところはあるけれど、駅で言うと小浜か北鯖江で、新幹線がかすりもしていないのでどうしようかと思う。小浜だと足りなくて、北鯖江は行き過ぎる。東舞鶴からしか乗ったことがない小浜線敦賀から乗れということなのかもしれない。

よく考えるとここ2年は珍しく派手な開業ラッシュだった。去年は宇都宮ライトレールができ、東急と相鉄が新横浜に伸び、福岡でも地下鉄が伸びた。南阿蘇鉄道も全線で復旧した。一昨年は長崎で新幹線ができ、10年以上運休していた只見線が復旧した。

でもこれでしばらく派手な延伸はない、広島電鉄が広島駅付近でルートを変えるのと、岡山電軌が岡山駅まで乗り入れてくるだけだ。あとは大阪モノレールか、羽田空港アクセス線までない。伸びたら伸びた時にのんびりと行けば済む。広島なら広島市現代美術館に行けばいいし、岡山なら後楽園に行きたいし、最悪倉敷に行けばいい。ついでもあるし、全線完乗と言い続けるのはたやすい。

そう思っていたら大阪メトロの中央線が夢洲まで伸びるということを知らなかった。何でも万博のお陰で来年にでも伸びるという。じゃあ北大阪急行のついでに乗ってやろうかと一瞬思ったが、来年大阪なんかに行ったらとんでもないことになるのでやめようと思う。

3月を春だと思ったことは一度もない。11月から3月はずっと真冬。でも暑いのが嫌いな人は5月から9月ぐらいはずっと夏という感覚なんだろうな。でも夏が嫌いな人のほうが声がでかい気がする。もう少しおとなしくしてほしい。お互い嫌いだと思う期間は同じぐらいの長さなのだ。

鍵付きの傘立てだったので、鍵をかけたら番号が999番だった。銀河傘999。