人生無駄ばかり

タイパやコスパが叫ばれる昨今「役に立たないことはしない」「無駄なことはしない」という価値観が日本に蔓延しているような感じがして(個人の印象です)、そう考えると自分の人生なんて「無駄なこと」「役に立たないこと」しかしてないような気がする。日本の鉄道に全部乗ったなんてその最たるものだと思う。他にも必要以上に手帳を買い集めたりだとか、ひたすら青い万年筆を買い集めたりだとか。お前なにかを買ってばかりだな。

まあでも大半の人間なんて50年後100年後の日本史に名前も残らないような存在でしかない訳で、みんなの言う「役に立たない」「無駄なもの」として触れることなく切り捨てられてしまうようなものに過ぎなくなるのだから、そんなに頑張って無駄を削ぎ落としたり役に立つことしかしないことを目指さなくてもいいんじゃないかと思う。

所詮何が「役に立つ」「役に立たない」なんて個人の価値判断に過ぎないのだけど、最初からその可能性を閉ざしてしまうのも勿体ないなあという気持ちです。それは自分が何者になりたい訳でもなく、どこを目指す訳でもなく、ただこの世界を漂っているからだとも思う。それはやっぱり生き残るという意思が全く無いのがすべての根本にある気がする。だからそもそも私が生きているということ自体が無駄なのであって、その無駄な人生のなかでなにかを目指すということがすでに無駄なのです。明日が来ることさえ不確実なのに、人生を逆算して考えるということができないのです。だから今やっている行為が何とも結びつかないように見えるし、事実将来のなんにも結びつけるつもりはないのです。でもだからこそ、後になって今までやってきたことが結びつく瞬間がたまらなく面白いのです。

時計は1つあると時間がわかる。2つあるとわからなくなる。

池袋か新宿に行くたびに世界堂に行って色鉛筆のバラを2割引で買うというコスいことをしている。「六角形だから」という理由でカランダッシュのパブロを常用しているので基本的にパブロを買ってくるのだが、池袋の世界堂ではなぜかパブロを売っていないので仕方なくルミナンスを買ってくる。銀座にはカランダッシュの直営店があるのだが、試筆コーナーに全色ある訳ではないので想像でエイヤで買う。まあ色鉛筆なんてなんぼあってもいいのだから困ることはないのだけど、確実に使用頻度が少ないものは存在する。しかしカランダッシュでは伊東屋のメルシーポイントが貯まるので、これが10月になるとシステム手帳サロンで還元されるしくみになっている。だいたい限定品のリフィルぐらいはポイントで賄える。

青が好きなので青色ばかり集めている。青色ばかり集めていると遠目に見ても目の前にあるのがサファイアブルーなのかジェンシャンブルーなのかわかるようになってくるし、ナイトブルーとプルシアンブルーとウルトラマリンとインディゴブルーの色の違いがわかるようになる。しかしそれ以外の例えば青緑や水色についてはまだ疎いので、アズライトブルーとマラサイトグリーンと、マラサイトグリーンのうえにコバルトブルーを重ねたやつの違いがだんだんわからなくなってくるし、何と何を重ねたらこの色合いが出るのか二度と思い出せなくなる。そして未だにスカーレットとバーミリオンとカーマインの違いを把握していない。

しかし画材屋の売り方とか、カランダッシュの売り出し方を見ても、パブロじゃなくてルミナンスのほうを売りたいんだろうなあと思う。高いし。100色で世界堂価格の2割引でも6万2000円する。しかし手に持った感じはパブロのほうが好きなんだよな。書き味は確かにルミナンスのほうがいいなと思う瞬間はあるのだけど、単純に売られているときの削り加減のだけのような気もしないでもない。でもパブロもいいよ。一本800円だと高いなと思うけど500円ならギリいけるなと思います。思いません?

「なにもしない」の解像度

今日は何もしない日にすると決めていた。わざわざ「何もしない」と手帳に書いてある。今日でなければならないこともないし、美術館は夜まで開いている訳でもない。だから何もしなかった。年明けにコロナから治ってから家を出なかったのが1日しかない。その間に広島に行ったし京都に行ったし神戸にも行った。そりゃまあアクティブだと思われるわけだ。

それで一日を過ごした。これを「終日無為」と書く内田百閒のような人もいるだろうし、本を読んで、本の内容を手帳に書き写して、飯を食って、寝て、イラストを描いて、夕方から風が強くなって、缶詰の賞味期限が切れていたので夕飯に食って、風呂に入ったと書く人もいるだろうと思う。「何もしない」の解像度の違い。本の内容を手帳に書き写すというのがものすごく捗った。今日は何もしなかった、と思っても案外何等かのことをしていたり考えていたりするものであって、そういう解像度を上げていくのに最も有効な手段は俳句か短歌を作ることである。しかし「私趣味ないんだよねー」という人に「俳句か短歌いいですよ、スマホのメモ帳あればできますよ」というと「それは嫌だ」と言われる。じゃあ無趣味のまま生きろ。

ただ私が広島に行こうが京都に行こうが神戸に行こうがここに何を書こうが、おそらく数十年から数百年後における日本史においては私は何もしなかった人になるだろうし、たぶんそもそも存在しなかったことになる。歴史というのは作った人の選択の結果であり、絶対中立の歴史というものは存在しない。歴史が書を作るのではない。書が歴史を作るのである。

適度に狂いたい

ジョジョのアニメの主題歌やMADなどを聴きながらイラストを描いていると女の子がスタンドで戦っているような絵になってしまうので、最近はSound Horizonなどを聴きながら絵を描いている。ただSound HorizonSound Horizonでまあまあ人が死んだりするファンタジーではある。ただ割と世界観としては適度に狂っていたいと思っていて、その狂っている方向性としては若干Sound Horizon寄りでありたいと思ったりしながらイラストを描いている。

Sound Horizonは霧の向こうに繋がる世界から入ってMärchenで終わった人なので、結構懐かしいなと思いながら聴いている。当時はコミュ障だったので複数人で行くカラオケで普通にSound Horizonを歌うような人だった。当時の音域は4オクターヴ弱あったので男声パートも女声パートも実音で普通に歌えた。しかしそれが活かせたのは「笛吹き男とパレード」ぐらいで、一番それが活かせる「黒の予言書」は配信されていなかった。あれが歌えたらどんなに楽しかったろうと思うと残念でならない。

今はどうか知らんが当時は歌詞カードに入ってないセリフはそもそも字幕が出てこなかったり、出てきてもよみがなが入っていなかったりしたので歌詞を全部頭に叩き込んでからカラオケに乗り込んでいったものであるが、もう5年ぐらいカラオケに行っていないから今は知らない。

1回だけ同じ趣味の人とカラオケに行って男女パートでハモったりしたのだが最高に楽しかったので持つべきものはサンホラを歌える友達である。これだけは断言できる。

微妙な青の違いをぜんぶ丸めて岩群青でドーンと塗りたくってしまう

モネと福田平八郎を並べられたらそら福田平八郎に行くでしょ、ということで「没後50年 福田平八郎」に行ってきた。というか本当にモネに行きたかったら上野の森で見ているからな。

福田平八郎は去年の「重要文化財の秘密」展で見た《漣》がよかったのと、近美の《雨》を知っているぐらいである。でもこの2枚からも「抽象的」「幾何学的」「模様みたい」というようなイメージをなんとなく持っていた。

でも、この展覧会はその抽象や模様は対象の徹底的な写実の末にたどり着いた場所であるということを教えてくれる。jpgの画像を拡大し続けていくとやがてそれがちいさなピクセルの集合体になっていくように、写実から装飾、文様的、ある意味でデザイン的なものへと変わっていったのかもしれない。福田平八郎は純粋にひたすらものを見続けた画家であった。

大分県立美術館以外では初登場らしい《雲》は空の一番青い部分と雲の一番白い部分を切り取ってきたようなそんな絵だった。細かいところを見ると微妙に色を変えながら、その画面全体を視界に収めようとすると青一色と白一色がぶつかり合っているように見える。郷さくら美術館の村居正之展で見たギリシャサントリーニを思い出した。村居正之も現代の日本画家。青を群青一色で塗り、その下にほぼ純白の建物を置く。西洋画ならたぶん、空の色の微妙の変化を表現していくだろうと思う(印象派なら尚更だ)。でもその微妙な色の違いを一緒くたに岩群青でドーンと塗ったくってしまうのが、屏風の余白を金箔を貼って埋め尽くしてしまう「日本」の平面性なのかどうかは知らない。

グッズは色々あったのだけど、そもそもメインが《漣》なのでグッズは攻めている。それにしても最果タヒとコラボすることを思いついた人は天才だと思ったのだが、残念ながら池袋のジュンク堂でもなぜか売られている。なぜだろう。

夜行バスから降りたあと読んでも眠くならない哲学の本

抗不安薬を飲んでから夜行バスに乗りたいとかつてのたまっていたのだが、確かに目をつぶってからスムーズに意識が落ちかけるような気がした。

夜行バスで寝たんだか寝ないんだかわからない時間を8時間も過ごしたあとで哲学の本を読むようなものではないが、コーヒーを読みながら席に座って落ち着いていれば別に読んでいても眠たくならない。10年以上実家で眠っていた『現代思想の冒険』(竹田青嗣)は要するに夜行バスから降りた後に読んでも眠くならない本である。しかし大学生当時の自分が一体この本に書いてあることをどれぐらいわかっていたのかはもはやわからない。今でもボードリヤールの消費論なんてよくわからないのに、哲学に深く触れている時間なんてなかった大学生の自分がどこまでこの本を読めていたのか。あれから10年以上たって私も少しは賢くなった。付箋をつけながら読んで、あとでノートにまとめ直す。それぐらいゆっくり読むということを覚えたのである。

8時30分になったのでにしむら珈琲店の中山手本店に行った。にしむら珈琲店の創業の場所、いわば聖地である。目当てのナガサワ文具センターは10時開店である。鉄道に乗っていた頃は3時間30分も喫茶店で過ごすなんてありえなかったのだけど、今回は別に鉄道に乗りに来た訳でもないし、バスの中で8時間も過ごした後で凝り固まった体がもとに戻るには3時間30分ぐらい必要である。多分。

どちらかといえば色々な店に行きたいタイプの人間なので同じ町にいったときに同じ店に行くことは珍しいのだけど、京都はソワレ、大阪はニューYC、そして神戸ならにしむら珈琲店とコム・シノワ。ここは2回以上行っている。一度行ったからこそ場所もメニューもわかっているから考える暇がない時に入るだけとも言うし、お気に入りとも言う。でもそもそも同じ町に何度も滞在するということがないんだよな。あとは長崎の冨士夫ぐらいだろうか。冨士夫は少し長崎駅から遠いからわざわざ行っているという感じがする。

路線バスを走らせている会社の夜行バスを選びがち

夜行バスに乗る時はなんとなくバス会社のバスに乗る。夜行バスを走らせているのだからどこもバス会社なんだけど、観光バスみたいな会社じゃなくて路線バスも持っているような会社ということである。別に今はその2つの区別はないのだが、単に好みである。だから未だにウィラーやジャムジャムエクスプレスに乗ったことがない。ジェイアールだの西武だの阪神だの、やたらと鉄道会社系のバス会社のものに乗っているが、これはただの偶然である。鉄道名を冠さないバス会社の夜行バスに乗ったのは関東バスの「ドリームスリーパー」ぐらいで、今回はそれ以来の鉄道名を冠さないバス会社のバス、神姫バスに乗った。神戸や姫路エリアを中心に路線バスを走らせている会社で、バスの愛称「プリンセスロード号」は「姫路」を英訳したものである。

全室個室であるドリームスリーパーは置いておいて、いわゆる普通の夜行バスと比べていいなと思ったのはプライベートカーテンが座席の横ではなく前後にまでついていることで、要するに簡易個室状態を実現できる。したがってリクライニングする時に前の人を気にすることもないし、後ろの人を気にする必要もない。これはよい。薄黄緑色ベースの塗装はあまり好みではないが、設備は良い。ちなみに、「プリンセスロード」ではない高速バス仕様のバスは白地に赤とオレンジで、これは神姫バスの路線バスの色合いに近い。

実は神姫バスのバスに乗るのは初めてではない。神戸のベイサイドエリアを走る「ポートループ」という連節バスに乗ったことがある。しかしこの「ポートループ」はネイビーに塗られており、2回も神姫バスに乗っているのにまだ普通の塗装のバスに乗ったことがない。

びっくりしたのは途中のトイレ休憩がなかったことで、車内のトイレを使って下さいという。まあ確かに私も雨が降っていたら休憩でも外に出ないし、出発時刻に乗車確認するのも手間だろうから、ある意味では合理的であるなと思った。

プリンセスロードは大阪を通らず、三田と三宮を経由して姫路に向かう。大阪なら5時40分から開いている天下の名店ニューYC*1があるのだが、神戸の場合はだいたい早くて6時30分開店である。だから遅延はしてもいいが、早着は困る。しかし結局三宮には20分早く着いた。

*1:唯一の欠点は喫煙可能店であるということである