「なにもしない」の解像度

今日は何もしない日にすると決めていた。わざわざ「何もしない」と手帳に書いてある。今日でなければならないこともないし、美術館は夜まで開いている訳でもない。だから何もしなかった。年明けにコロナから治ってから家を出なかったのが1日しかない。その間に広島に行ったし京都に行ったし神戸にも行った。そりゃまあアクティブだと思われるわけだ。

それで一日を過ごした。これを「終日無為」と書く内田百閒のような人もいるだろうし、本を読んで、本の内容を手帳に書き写して、飯を食って、寝て、イラストを描いて、夕方から風が強くなって、缶詰の賞味期限が切れていたので夕飯に食って、風呂に入ったと書く人もいるだろうと思う。「何もしない」の解像度の違い。本の内容を手帳に書き写すというのがものすごく捗った。今日は何もしなかった、と思っても案外何等かのことをしていたり考えていたりするものであって、そういう解像度を上げていくのに最も有効な手段は俳句か短歌を作ることである。しかし「私趣味ないんだよねー」という人に「俳句か短歌いいですよ、スマホのメモ帳あればできますよ」というと「それは嫌だ」と言われる。じゃあ無趣味のまま生きろ。

ただ私が広島に行こうが京都に行こうが神戸に行こうがここに何を書こうが、おそらく数十年から数百年後における日本史においては私は何もしなかった人になるだろうし、たぶんそもそも存在しなかったことになる。歴史というのは作った人の選択の結果であり、絶対中立の歴史というものは存在しない。歴史が書を作るのではない。書が歴史を作るのである。