立原道造「長崎紀行」

詩人・立原道造が死の直前に長崎へ行った際には、いつも一冊のノートが手許にあった。現在「長崎紀行」というタイトルで読むことができるその文は、その瞬間瞬間の詩人の心象や見えた風景を書き連ねていくというスタイルを取っている。それはあとから旅行記として発表するために書き留められたメモにしては長く、しかし帰ってきてからじっくりとまとめられた旅行記よりも短い。ほんとうはこのメモを元に、詩やほかの創作をするつもりだったのかもしれないけれど、これはすでに十分、旅行記として読むに耐えうる強度を持つ。長崎、南方への憧れを持ちながらも山陰本線経由でゆっくりと西に向かう旅程は、眩しくて、きらきらとしている。苦しいほどまでに。病身を押して行ったこの旅行は結果的に詩人に絶望しかもたらさず、結果的に命を縮めることになる、ということを考えるとなおさらである。

この時立原が訪れ、滞在するはずであった建物は南山手町、今はグラバー通りと呼ばれている、大浦天主堂に向かう坂道の途中にあったらしい。

熱っぽくつかれた身体をこの町にはめずらしいのだという冬のような曇り空にひどい風のふくなかを南山手という方に野村恭二君に連れてゆかれる。ひどくうらがなしい日だ。いくらか寒く感じられる。大浦の白い天主堂のみえるあたりで電車を降りる。そのあたりはもう古ぼけた洋館が沢山あった。坂をのぼるととっつきの宏壮な洋館が、そこが僕の借りようとする部屋のある家だという。茶色のペンキのもう剥げかかった古い建物が黒ずんだ木のあいだから暗鬱な空の下にある。
立原道造『長崎紀行』)

その建物は作家の島尾敏雄が下宿していた建物とされている。

だから福岡に帰った彼(矢山哲治)から東京の詩人のひとりが長崎に来たがっているから下宿の部屋をしばらく貸してほしいと言われたときも、反射的に逃げ出したいと思ったのだ。(中略)そのときの私の下宿というのは南山手十二番地にあったいわゆる十二番館。大浦天主堂に行く石だたみの急な坂道の右がわにあった木造洋館で、四つの棟が築山や池のある広い中庭をはさんで対峙していた。もとはヨーロッパ人向きのホテルとして建てられたというが、当時は雑多な境遇の人人が部屋借りをして住んでいた。
島尾敏雄「詩人のへだたり」, 『ユリイカ』, 第3巻7号, 1971年)

 

グラバー園の近くにある「南山手地区街並み保存センター」は居留地の街並みを再現した模型を展示しているが、モデルとなった時期は明治の中期頃で、立原道造が訪れた昭和のはじめとはかなり様相は異なっている。ちょうど12番地にあたるところと思われる箇所は空き地になっていた。だから、「四つの建物が、二階からつき出た廊下によつて一つに結ばれてゐた」(島尾敏雄南山手町』)というこの建物がどういう外観だったか、模型からでも知ることはできない。しかしこの「南山手町地区街並み保存センター」を含め、南山手町東山手町には内部が公開されている当時の建物もあり、立原道造島尾敏雄がどういう建物を見ていたのか、ほんの少しだけ感じることができる気がする。

ずっと筑摩書房立原道造全集でしか読めなくて、本気でこの巻だけ買ってしまおうかと思ったけれど、2018年ようやく講談社文芸文庫から『建築文学傑作選』というアンソロジーに収録化される形で文庫化された。他にも何篇か入っているけど、未だにこれ以外に収録されている本を読んでいない。