鉛筆を買った、鉛筆削りも買った

鉛筆を買った。今まではカランダッシュのフィックスペンシルという、鉛筆のシャープペンの間みたいなものを美術館で使っていたのだが、東京国立博物館ではシャープペンと認定され、他の美術館でもいちいち確認を求められるなど関係各位にご迷惑をかけたので、ついに鉛筆を買うことになった。いちおう鉛筆だとはいえ、芯を収納した状態から筆記可能な状態にするためにはノックボタンをノックする必要があり、そのノックした行為がシャープペンと認定された可能性がある。そう思って芯をある程度出した状態で持っていくのだが、やっぱりあれはボールペンにしか見えないらしく、やはり確認を求められる。

私だって注意書きを読まずに美術館に来るほど馬鹿ではないので、「これはシャープペンではない。鉛筆である」という信念のもと持ってきているのだが、ステッドラーなどは2mm芯のシャープペンなどを発売しており、フィックスペンシルとの違いが何なのか自分でも確固たる理論を発見できていない。2mmのシャープペンもフィックスペンシルも「芯ホルダー」という概念で一括りにされてしまう。

そうやって各所で確認を求められてご迷惑をおかけするのでついに鉛筆を買うことになったのだが、そもそも考えると撮影禁止なのがよくない。撮影禁止でなければ作品とキャプションをメモ代わりに写真を撮り、鑑賞後喫茶店でその写真を見返してその感興を思い出すのに、撮影禁止だとその場でその時の感興またはその作品の概要を書き留めておかなければならない。だから撮影禁止じゃなくなればいいのだが、なんでかしらんが撮影禁止の展覧会はまだまだ多い。

鉛筆を買ったもうひとつの理由としては、代わりとして渡されるあのアンケートに書くような鉛筆、通称ペグシルが死ぬほど嫌いだからである。あれの書き心地が悪すぎて書いていると心に浮かんでいる感興すら忘れてしまう。あれで書くなら死んだほうがまだマシだと思ったことがあり、「死ぬほど嫌い」があながち大げさな表現ではないということはわかって頂きたい。

鉛筆を買うということは鉛筆削りを必要とすることである。だから鉛筆削りも買った。子供のためとかではなく、単純にただ自分だけのために鉛筆削りを選び買うという行為は、色鉛筆画をやらない限りほぼ大多数の人間にとって発生しないイベントだろうなと思う。