書きたいことはないけど何かを書きたい

昔から「何かを書く」ということが好きだった。それは小学生の頃に物語のようなものを書いていたり、高校生~大学生の頃はブログを毎日のように更新していたり、大学生の頃からノートを持ち歩き始めて、毎日そこに出来事や考えたことを書いたり、社会人になって旅行に行くようになったら、その記録もノートに文字だけでつけるようになっていたり、枚挙に暇がない。そういえば中学生の頃の職場体験は地域のミニコミ誌の会社で、取材~記事執筆までを一通りやる、というものだった。これで逆に書くことが好きではない、と言ったら冗談甚だしい、と言われるかもしれない。

でも、私が好きな「書く」とは、書いて誰かに何かを伝えるため、ではなくて、「書く」という行為そのものを指していた。ノートや手帳に万年筆を走らせてその空白を埋めていくという行為自体が目的で、誰かに読ませるためではない。物語やブログでさえも、読んでもらうことは重要ではなくて、ただそれをつくるという行為が目的だったのではないか。

特に、一度精神をぶっ壊しかけて以後は、この「書く」という行為が、精神というものを正常と呼べるギリギリのところに辛うじて保つための手段でもあった。
だから書いていたものを読み返すと、そこらへんの「文章術」を謳う本にかかれているすべてのことはまるで守られていない。一文はとにかく長いし、結論は最初に書かれていない。そもそも結論なんてない。「書く」という行為自体が重要なのだから、内容は重要ではない。どちらかというと単なる文字の連続のほうに近い。読み手のことなんて考えていない。読み手は自分だけである。自分ですらないかもしれない。

書きたい内容なんてない。でも何かを書きたい。それを公の場所に置いておきたい。いまどき公の人でない人が公の場でブログをやるメリットなんてもはや何にもなくて、デメリットしかない。けれども、それがこのしょうもない人生をちょっとでも変えてくれるのではないかとここ何週間か思っていたのは、完全に疲れているからかもしれないし、いよいよ自分もおしまいだからかもしれない。