13年前に出会いたかった

それから先月出た『コンプレックス・プリズム』(大和書房)と『神様の友達の友達の友達はぼく』(筑摩書房)を読んだ。後者が電子になってくれないのが不満だけど、ああいう構成なら仕方がないとも思う(行分けではない詩集ではたまにあるやり口である。ただ自分はその効果や意図についてはよくわからない)。でも文庫になったら電子になって欲しいです。

一貫して他者は他者、自分は自分という感覚については『きみの言い訳は最高の芸術』と代わりはしないのだが、時折言及される「言葉」についての文章は、自分も詩や短歌を書いていた13年ぐらい前に出会いたかった、と思った。

高校生とか大学生の頃は詩とか書きたくなっちゃう年頃なんです。自分もそうだっただけに過ぎない。でも「現代詩文庫」*1を買ったり、『現代詩手帖*2を定期購読して、投稿欄の詩を読んでいたりすると、自分の書いているものは果たして「詩」なのか? いやそもそも「詩」って何か? 携帯サイトで見かける「ポエム」と揶揄されるものと「詩」とされるものって何が違うのか? と訳がわからなくなっていって、自分の書いているものに自信が持てなくなっていった。物凄く難しい大学の現代文の問題を解いているような、何かは書けているんだけどわかっている感が全くしない感じがして、それで自然と詩を書くのをやめてしまった。

この本たちには言葉がどういうものか、詩が人間に何をするかという話題も時折出てきて、もし詩を書いているときに読んでいたら、あんなに迷わずにすっと詩というものから離れられるか、或いはもっとこういうものを書けばいいのか、腑に落ちたのではないかなと思う。一方で、13年前の自分は果たしてこれが理解できただろうか。

短歌はそれに比べるとまだ「楽」だった。57577の定型を守っていれば「短歌です」と言うことはできた。なんとなく全国紙に投稿したら何回か載った*3。でもなんかある日急に作れなくなって、それでやめてしまった。定型のなかに風景や感情をはめ込んでいく、ということを考えるのがなんだか馬鹿らしくなってしまった、というのが、偽りならざる感覚だった。

短歌や詩を書いていた頃から、その作品で自分が表現したいことなんて特になくて、それは今こうやってブログに書いているのと変わらない。当時詩とか短歌でやっていたことを、今またブログという形になっている*4だけなのかもしれない。

昔自分の作った短歌に対して「意味がわからない」とコメントされたことがあるのだけど、「自分もわからないです」としか思わなかった。何か意味があって短歌を作っている訳ではなかったから。やっぱり自分は「詩みたいなもの」「短歌」「散文」を「作る」という行為に対してしか意味というか価値を感じていなくて、それの中身なんて正直どうでもいい。

今は昔短歌を作ったようにブログを書いています。でも、これを書くという行為自体を苦痛に感じるというか馬鹿らしいと思うようになったら、またこのブログという形から離れていくんだろうなあ。

 

*1:思潮社が出版している、詩人ごとに代表作を集めたアンソロジー。相当デカい書店か、よほど詩歌に力を入れている本屋でないと売られていない

*2:思潮社が刊行する現代詩の月刊誌。紙質がいい

*3:その他いくつかの投稿型の同人誌に掲載されたことがあるので、探せば私の短歌は出てくる

*4:高校1年生の頃から大学4年生までほぼ毎日ブログを更新し続けるという気の遠くなることをしていたことがある。これはその時以来のブログである