読書はするけど「読書」は(あまり)しない

3連休でhontoポイントが予想通り5倍になったので*1、阿呆みたいに紙の本を買ってしまった。本は基本的に電子で買う。本棚が小さいからである。だから読む頻度の少ない本は本棚を占拠させたくない。読んで何度も読み返すような気に入った本は紙で買いたいのだけど、hontoは紙で買った本の電子を半額で買うシステムしかなくてその逆がない。古本屋で買えということか。いや、図書館で借りてから考えろということなのだろう。

(田舎すぎて実家の近くに図書館がなかったので、本を借りて読む、という思想が昔からなかった。大学の近くには古本屋よりも新刊書店のほうがたくさんあるといった有様で、本というものは基本的に新刊で買うもの、と今でも思っている。図書館に行くという行為をするようになったのは、本当に最近のことだ。だけどそれはそれでまたひとつのお話になりそうなので、また今度。)

不本意ながら人間として生きているので、一応それなりに本を読む。読書が趣味だと思っていた頃もあるのだが、今はそう言わないようにしている。昔「読書が好き」という話をしたことがあるのだが、私は相手が好きだという作家の本は一冊も読んだことがなくて、向こうも私の好きな詩人の作品を読んだことがなかった*2。それでお互い曖昧な反応をしておしまいになった。

そのとき強く感じたのは「読書が好き」という人の指す「読書」は、毎月のように出る文庫や新書、それに「国内文芸」の棚に並べられるような小説や随筆の類のものを読むことを指すのであって、それ以外の棚に置かれている本や、詩や短歌といったジャンルの本は(「文芸」とくくられていてもおかしくないにも関わらず)「読書」にはあたらないのだな、ということだった*3。だから私の読書はコミュニケーションのツールにはなり得なかった。だから本は標準的な量を読むけど、それを「好き」とは言わない。

昔からあまり物語を面白いと思ったことがなくて、真面目に読んでいた漫画なんてなかった。ライトノベルで『レジンキャストミルク*4を揃えたぐらい。内田百閒や永井荷風の随筆や日記は大人になってからよく読んだけど、「阿房列車」以外は単なる「日本語」や「文体」としてであって、その文章の中身がどうこうだから、というものでもない。

今回も現代美術の本を買ったり、その前も専門書や学術書だったり画集だったりで、本を読む時には読書という行為の外側に理由を求めていることが多い。読書はするけど「読む」という行為のための「読書」はあまりしない。私の場合はその「読む」という行為の代わりに「書く」という行為が存在しているのかもしれない。

*1:hontoポイントは少し長めの休みがあると倍になったりすることが多い。

*2:当時は清水昶石原吉郎が好きだったが、相手は知らなかった。

*3:ただ、ここ10年弱前程度の学生短歌を中心とする若者の短歌ブームというべき潮流や最果タヒの普及、筑摩書房による現代詩人・歌人の積極的な文庫化等により、詩や短歌を取り巻く環境はある程度マシになっていると思われる。というより思いたい。

*4:藤原祐ライトノベル電撃文庫。2007年完結。