ご自由にお持ちください。

読み手を想定して書く、というのがどうしてもできない。想像力がないのだと思う。でもそれは「何か」を発信する行為のときに必要なのであって、私みたいに別に何かを発信したい訳ではない人にはそんなこと必要ないのかもしれない。

言葉は伝達のためにあるのではなかった。どうせ自分の考えなんて他人にわかってもらえるとは思っていなかったから。自分の考えたことを、ただ自分の目の前に表現するためだけのものであった。誰にも読まれなくても構わなかった。自分だけがわかればよかった。10年以上、毎日のように書いていた文庫サイズのMDノートは、誰にも見せないまま、本棚を埋め尽くしていっていた。

それなのにブログを始めて、しかも毎日のように更新している。理由はよくわからない。言葉があなたの耳の骨に住みついて波の囁きになるからではないし、ずぶぬれで死んでいく一匹の仔猫でもない。夏の太陽が眩しかったからではないし、十代の頃に孤独なんてものを感じられなかったからでもない。ヤクルトスワローズの試合を見ていたらブログを書きたくなった訳でもない。そこにブログがあったからでもないし、言葉でじぶんの翼をつくることを考えたからでもない。

未だに発信したいことなんてないし、言いたいことはない。行き帰りの電車の中だったり、昼休みのドトールだったりで考えたことを、少しずつ広げていったもの。それがこのブログの全て。思考を広げる過程は基本的には万年筆に手帳で書いて行うのだけど、ブログの投稿画面で、キーボードを叩いたほうがスムーズに文がつながっていくことがあって、それがブログという形を借りている必然性のひとつなのかもしれない(ちなみにこの部分を書いたのは万年筆です)。

でもそれだけなら、ただ書きたいだけというなら公開範囲を「非公開」にしても同じで、公開にする必要なんかない。或いはノートとペンを用意して、そこに書きつけて、誰にも見せずにおいておけばいい。やっぱり誰かの目には触れていたいというしょうもない承認欲求がある、というのはごまかしようがない事実で、それが結局公開の場でブログを書く理由だと思う。

小さくていいから、ほんの小さな穴を開けて、外の世界の空気を入れておきたい。でも人と交流したい訳ではないからコメント欄は作っていないし、アクセスされるため(そしてその先にある収入のため)にあるのではないから共有のボタンも作っていない。不要になった食器類を箱に入れて、家の前に「ご自由にお持ちください。」と書いて置いていきたい、という感覚に近いのかもしれない。

共有なんてされなくていい。自分から周りに見つかりに行こうとしなくていい。所詮自分の考えが収入を得られるほど万人に受けるようなものではないなんて最初からわかりきっているし、こういう文章というものはその内容というより書き手そのもののほうに読まれる理由があるものである。そんな他人の眼を窺った文章ではなくて、なにかのきっかけて偶然このブログの前を通りかかり、今この記事を読んでいる貴方との一対一の関係であればいい。それを読んだ瞬間になんかいいなと思ったけど、読み終えた瞬間にはもうその人の中には何も残らないようなものが書けていたら、もうそれだけで十分である。