生きるのが苦手です。

得意なことが何か訊かれても答えに窮するけど、苦手なことは何かと訊かれたら「人として生きることです」と即答できる自信がある。

子供の頃から一人が大好きで、完成されたコミュニティに入っていくのが苦手で、人見知りで、面倒くさがりで、考えることが苦手なのに運動も苦手だった。得意とか苦手とかいう概念があるものは全部苦手で、上手い下手という概念があるものは全部下手だった。すぐにゲームというもので勝ち負けをつけがちな小学校の授業では、私はいつも「負け」の側にいた。負けず嫌いの私は「どうやったら人に勝てるか」ではなく「どうやったらゲームに参加せず、負けを経験せずに済むか」をばかり考えるようになって、余計に人と交わらなくなっていった。そして、余計に一人で遊ぶことを選ぶようになっていった。

今流行りの「生きづらさ」を表現できるほどの表現力もなかったし、「生きづらさ」を感じるぐらいに繊細でもなかった。『適切な世界の適切ならざる私』*1と言ったら古いかもしれないけれど、「生きづらさ」を感じられないぐらいには、私は「適切」であった。

でも「生きづらさ」という言葉には、なんとなく「自分の正当性」を数パーセント主張しているような印象がある。だから私のそれは「生きづらさ」とは多分違うのではないかと思う。世界は完全に「適切」で、私のほうが完全に適切ではない。

みんな一体何がそんなに楽しくて生きているのかよくわからない。あの中に何か一つでも人並みに得意なものがあったら、きっと私も無邪気に生きていたのかもしれない(あるいは、スポーツの強い大学を出ていたら、人生の楽しみの1つや2つは多かったのかもしれない)。

「自分、人生苦手なんだな」と思ったときは、随分便利な言葉を見つけたものだと思った。別に辛くもないし苦しくもない。ただ、単純に苦手。もっとスマートな生き方があるのかもしれないけれど、それ探す気力すらないから、多分ない。だから生きているのが苦手です。

*1:2009年出版の文月悠光の詩集。2020年にちくま文庫化。