音楽などまったく必要ない人間が13年も音楽していた

音楽評論家の吉田秀和は、カール・リヒターが指揮する『マタイ受難曲』を評して「この演奏のペテロの否認の場面で涙しない人がいたら、その人は音楽など全く必要のない人である」と書いた。私はその音源を聴いて幸いにも涙しなかったので、音楽は必要のない人間ということになった。でもそういう人だって13年も音楽の部活をしてきたから大丈夫だ。何も恥じることはない。

クラシックだろうがロックだろうがアイドルだろうが、「この曲が人生を救ってくれた」という、そういう体験なんか全くしてこなかった。思い入れのある曲はあるけど、その曲に救われた訳でもない。そもそも何かに救われるような学生時代ではなかったし、鬱病になってからは音楽を聴く元気すらなかった。いっときSound Horizonに物凄くハマっていた時期があったのだけど、あれは一体何処にハマっていたのかよくわかっていない。単に最初に触れた『schwarzweiβ~霧の向こうに繋がる世界~』が格好良くて友人に「それSound Horizonだよ」って教えてもらったからで、その物語性だとか、音楽性だとか、そういうところには別に惹かれていなかったと思う。『Märchen』を聴いた時に「ああこれはもう音楽じゃなくて物語だな」と思って聴くのをやめてしまったぐらいだから、自分の欠落を埋めるほどの存在でなかった。音楽で人生が変わったとしたら文学部に行きたいと思うようになったことぐらいだった。音楽に関わる部活しか経験してこなかったのに、気づいたら音楽と関わらない時間のほうが長くなっていた。

しかし音楽なんていうものは必要に迫られて聞くよりも(たとえそれが職業などと関係なく、心理状態上の必要によるものであっても)、満たされて閉じた状態の、その外側で聞いたり演奏したりすることのほうが、幸せではないかと思う。音楽を必要としないほうが健全、と言うと言い過ぎかもしれないけれど。

それでも逆の意味で「音楽なんて要らない」と思ったこともある。所沢でゲルギエフとマリインスキー管弦楽団が演奏したチャイコフスキーの「悲愴」を聴いたあとは、しばらく何の音楽も聴けなかった。この耳の中に残っているのはこの「悲愴」だけでいいと思った。もしこれが「音楽」なら、自分が今まで聞いたり演奏してきたものは一体何だったのだろう、とさえも思った。しかし、これ以来、これと同じような経験をしていないので、多分これは「音楽を超えた何か」だったのではないかと思っている。