大塚国際美術館で、「美術」について考える(徳島紀行: 7)

大塚国際美術館にある1000点以上の展示物のなかで、「本物」を見たことがあるのは、ベラスケスの《卵を料理する老女と少年》だけである*1。自分が見たドーミエの《三等客車》はメトロポリタン美術館所蔵のものだし、イヴ・クラインの《無題(青のモノクローム)》だって金沢で見たものとは別のものだ。だから、たとえば今私の眼の前にあるのは《モナ・リザ》の複製品であって、《モナ・リザ》そのものではない。自分のなかの「《モナ・リザ》のイメージ」が実物大のそれとして更新されるだけであって、「本物」を見たことにならない。

(余談だが、結構いろんなところで「《モナ・リザ》はそれほど大きくない」ということを聞いていたので、いざ「実物大」のそれを見てみたら意外と大く見えた。よほど自分のなかで小さくなっていたのだろう)

しかし、いざ私が外国に行って、これらの本物を見た時、劣化していたり、変色していたりして状態が変わっていたとしたら――それはただ「本物である」ということにしか価値を見出さないかもしれない。「大塚国際美術館で見たもののほうがよかった」とさえ思うかもしれない。ここに置かれているものが、「本物」を「超えて」しまうかもしれない。

「本物である」ということに価値を置くのか、それとも、「本物よりも美しい複製」に価値を置くのか。なんだか現代美術みたいな話になってきた。ますます本物と複製品の価値づけが曖昧になってくる。複製品は美術品と言えるのか。ウォーホルは工業製品の段ボール箱を美術品にしたけど、ここは名画の複製品を最初から「複製品です」と断ったうえで「美術品」として展示している。

ここは西洋絵画をテーマにしているのではないので実現はしないだろうが、例えば「本物」が存在しないデュシャンの《泉》のレプリカの複製を展示したらそれは《泉》のレプリカと呼べるのだろうか。それともあくまでこれは「《泉》のレプリカの複製」に過ぎないのだろうか。そんなことを考える。

ふと思ったのだが、複製品は「何年の時点での複製品です」と断るべきではないか。《最後の晩餐》が修復前と修復後で両方展示されているように。「本物」は変化する。だからそのほうがより「複製品」としての価値は高まるのではないかと思う。

まあでもここは美術テーマパークなのだから深いことは考えずに、ただ目の前の名画を楽しめばいいのだ。基本的には画家が描き上げた一番いい状態のものをタイムカプセルのように復元しているのだろう。《モナ・リザ》なら「《モナ・リザ》のイデア」と呼ぶべき状態なのだろう。ただ、《青のモノクローム》を3枚の陶板画で再現したのだけはいただけない。青の中に陶板画の隙間の黒い線が入ってしまっている。あれではイヴ・クラインではなくバーネット・ニューマンとかルーチョ・フォンタナになってしまう。

*1:2022年にスコットランド国立美術館展で来ていた。