手元においていかなくていいという位置づけでの実家の本棚

実家は倉庫ではないのであるが、どうしても実家は倉庫になってしまう。昔詩を読んでいた頃、比較的読まない本を実家の本棚に突っ込んでいたのだが、その後詩を読まなくなった後、家にある詩の本はだいたいぜんぶ捨ててしまったが、実家のほうは手つかずだったので、あまり読まなかった本のほうがまだ生き延びているという逆転現象が起こっている。

本棚に並んでいる現代詩文庫のメンツを見てもさもありなんというメンツしか残っていないのだけど、飯島耕一とか天沢退二郎とか渡辺武信あたりを残しているのは何故だろうかと思う。あの頃は合わなかったのかな。もうここにいないメンツを見ると清水昶とか石原吉郎とか入沢康夫あたりのほうを手元に残していたいと思っていたのだろうけど、鮎川信夫を手元に残して田村隆一を実家においていったのは何故なのだろう。

そういうようにだいたいこっちで買った本を実家に持って帰ってきて置いていくのだが、今年は実家から持っていくことにした。『想像の共同体』はなんとなく、もう一度読まなければならない気がした。大学生の頃民族問題を少しかじっていたから本棚にある。しかし最終的に卒論は民族問題とは全く関係のないところに落ち着いたから一度通読して終わっている。それ以降この本が私の人生に影響を与えたことはないのだけど、明治維新以後、日本が「日本」となっていくために「制度」(社会制度だけではなく、「日本国民」としての「思想」といったところなど)を整えていく過程みたいなところが割と好きなのは(こないだも『<日本美術>誕生』や『境界の美術史』などを買った)、大学生の頃『想像の共同体』とかホブズボーム『創られた伝統』あたりに手を触れたせいである可能性がある。

実家の本棚に『ニッポンの思想』(佐々木敦, 講談社現代新書, 2009)がある。浅田彰中沢新一から東浩紀までのいわゆるニューアカの流れを解説した本なのだけど、これを買って大学で読んでいたら同じサークルの先輩(同じ文学部)が内容を少し読んで「時間のムダじゃねえか」とだけ言って返してきたことをよく覚えていたのだけど、発売から14年経った今年、東浩紀以降を追記した増補新版が筑摩書房からちくま文庫になって発売された。

先輩、お元気ですか。