感情がない人間なので説明的な文のほうが読みやすい

女優の鈴木絢音が「自分は感情がない人間なので説明的な文のほうが読みやすい」ということを動画で言っていて、なるほどなと思った。

なにかの入門書や解説書を買う時、会話文で進んでいくものや、物語形式で進んでいくものは真っ先に選択肢から外している。ストーリー仕立てで進んでいくもののほうが記憶に残りやすいというのは確からしいが(そういう記憶法は方法論として存在する)、そういうものが一概に苦手なのである。会話形式で進んでいくものの「生徒側の反応」なんてわざわざ書かれなくても自分で考えれば気づくやん、と思うし、自然な会話を再現しようとしているのか、余計な会話が入っているのが逆にその世界に入っていく妨げになったり、「スベってるなあ」と思ったりする。あるいは、こっちがそういう内容の本だと思って期待しているテンションと、実際に本の中に書かれている内容とテンションが違いすぎて興ざめしたりする(これはそういう形で進んでいくブログでも同じで、そういうブログは吹き出し吹き出しの間に余計なスペースがあってスクロール量が増えて読みづらいという別の問題も存在する)。

物語仕立てで進んでいるものが苦手なのは結局小説を読まないところに通ずるのだと思うけれど、なんでそれが苦手なのかはよくわからない。わざわざ物語にしなくていいものを物語にすることで、物語の中で登場人物たちが筆者の主張という「答え」に向かって最終的にたどり着くように「演じている」と感じてしまうのがどうも青臭く感じるのか。前述のようなテンションの問題なのか、ともかく、面白そうだなと思った本でも、それが物語形式であるとわかった瞬間読む気が失せてしまう(『さみしい夜にはペンを持て』とか)。

最果タヒは「物語をたどりながら得られる快楽というものをあまり味わってこなかった」と書いていて、「正しく物語で育ってない」と書いている*1。確かに子供の頃最初から最後までマンガを揃えたことがなくて、実家には何故か『名探偵コナン』の1巻と4巻と7巻と8巻だけがあり(今もあるかどうかは知らない)。昔物語のようなものを書いていた頃もあったけど、「書きたい」と頭の中に浮かんでくるのは「物語」ではなくて「場面」だった。

最近欲しい本や買った本に図鑑だったり事典だったりが多いのは、図鑑や事典は「項目」という「場面」の集合で、本の最初から最後に向けて進んでいく物語がないから、ではないかと思った。その項目を並べる際に編著者の恣意性はあるけれど、アルファベット順とか、なにか規則を決めてしまえば、あとはその順番でひたすら項目が流れていき、それらの項目の間には何ら連関性はない。

まあでも図鑑や事典が欲しいと思うのは結局そこに書かれていることについて知りたいからで、「こういう気分になれる本が読みたい」、という訳ではないからで、最近洋の東西を問わない美術の論説ばかり買っているのも、なんとなく説明がつくような気がする。でも内田百閒も永井荷風も、随筆や日記は面白いけど小説は別にそうでもない、と思っている理由が結局よくわからない。昼間カフェで昼飯を食べながらこの話を考え始めて、昼食中に手帳いっぱいに思いつくことを書き散らして結論が出ないで、帰ってきてそれをブログの形に整えたのに、1500字費やして結局のところよくわからない。

*1:「世界は不親切な物語」, 『きみの言い訳は最高の芸術』, 河出書房新社, 2019, 109p.