信仰と垂直的なるもの

結局「やまと絵展」に3回も行ってしまった。結果的に四大絵巻、神護寺三像、三大納経を全部見るというミーハーな人になってしまった。平日の昼間よりか土曜の夜間開館のほうがよっぽど空いていたのは《鳥獣戯画》が丁巻だったからなのかは知らんが、さすがに18時に入ったら人が少なかった。18時に入って20時の閉館までいるというのはその辺に住むか泊まるかしないとできない芸当で、この辺に住んでいるうちにこういうことはしておくべきである。

第4期は三大納経よりも根津美術館所蔵の《那智瀧図》が目当てで、あの縦に長い画面をまっすぐ流れる滝の絵を見て「やっぱりニューマンだなあ」と思った。国宝指定のこいつが、奥村土牛が《那智》を描いた時に頭になかったはずがない。

仏教では死者のために卒塔婆を立てる。十字架はキリスト教のシンボルである。人間は垂直的なるものに世俗を超えたなにかを感じるのかも知れない。

「垂直的」といえば田村隆一である。

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない
田村隆一『言葉のない世界』)

しかしながら、これに関しては特に信仰どうこうではなく、単純に垂直的人間=「生きている」ということ、水平的人間=埋葬=「死」なのではないかという気がしている。詩を作るためには、あくまで射殺する側でなければならないからである。

一篇の詩が生れるためには、
われわれは殺さなければならない
多くのものを殺さなければならない
多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
田村隆一『四千の日と夜』)

こうやってああこう言いながら連想ゲームをしていくのが楽しいのであって、別に私は論文を書いている訳ではないのでなにかを結論づけるつもりはない。結論が出ないから手帳もブログも続いていく。