今年はあまりまとまって夏休みが取れなさそうな気がした。だから久しぶりに鴎鉄道に乗ろうと思った。ここなら別にわざわざ連続して休みを取って泊まりに来なくてもいい。今日乗ったのは鴎が書かれていない、全体が水色の電車だった。特にどこで降りようか、とも決めていなかったけど*1、20分もあれば終点に着いてしまうので気づいたらもう終点だった。そうしたらもうここで降りるしか無い。
終点の忘岬駅の近くには忘神社という神社がある。絵馬に忘れてしまいたいことを書いて奉納するのだそうだ。
寺山修司が「思い出すために」という詩で初恋や旅先の思い出を「忘れてしまいたい」と書いたのは「みんなまとめて/いますぐ/思い出すために」からであった。きっと、サラリーマン的な安定や「家庭の味」であるカレーを嫌い、戦場のように湯気のたぎるラーメン屋を支持し、ある一つの物事にだけ金を費やす「一点豪華主義」を唱えた寺山にとっては、「覚えている」という「状態」よりも、「思い出す」という「瞬間」のほうが大事だったのではないか。物事を思い出すという行為をするためには、その物事を一度忘れなければならない。だから「忘れてしまいたい」のである。
この「状態」と「行為」という対立の図式を出されると丸山眞男の『「である」ことと「する」こと』を即座に思い出す方も多いだろうと思う*2。持っている権利はその権利を行使しない「権利の上に眠る者」からはいずれ失われてしまい、常に権利を行使することによって守られるという例示で始まるこの文章が、なんとなく同じことを言っているような気がしないでもない。
大事な思い出である「はじめての愛だったから」からこそ、逆に「思い出す」という「行為」によっていつまでも「覚えていたい」のではないだろうか。なんとなく、この詩には、寺山修司の思想が凝縮されている。そんな気がする。
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いつかこんな話をどこかでしようとずっと前から思っていたのをここに来て思い出した。この場所は忘れさせてくれる場所、というよりも思い出させてくれる場所なのかもしれない。
でもこういうことを考えていたら、寺山の詩に「解釈」をするという行為がそもそもナンセンスなんじゃないかと思い始めたりもしたので、このあたりで考えるのをやめることにする。書を捨てよ、海を見に行こう。