北杜夫『どくとるマンボウ航海記』

どうしてこの本が家にやってきたのか。マンボウが好きになった姉が「この本を欲しい」と言ったのか、それとも新潮文庫版の表紙を見てマンボウが主人公だと誤認した母が姉に買い与えたのか、もう20年以上前の話なので真相は知らない。実際に航海をするのはマンボウそのものではなく後にマンボウを自称する精神科医であり、航海当時からマンボウを自称していた訳ではないし、本文中にマンボウはただ一度しか出てこない。こんな本を読んだ姉が最初にどう思ったか、それも知らない。

この本にはじめて触れたのは小学校の中学年ぐらいだったと思う。挿絵も何もない、ひたすら紙に文字がびっしりと続いている本で8割ぐらい何を書いてあるのかわからなかったけど、逆に言えば2割ぐらいはわかったのであって、それはfunnyのほうの「面白い」という感想を持たせた。それと同時に「こういうものを書いてみたい」と思ったのが、何かを書きたい、と思うようになったきっかけのひとつになった。

私は今や広漠とした海の気をあびて大いに嬉しくなり、たちまちにして一つの詩のごときものをひねくりだした。

 

これは海だ
海というものだ
ああ その水は
塩分に満ちている

困ったことに、私はそばを船が通るとすぐ魚雷でもぶっ放したくなる。それから小島でもあるとすぐに占領してしまいたくなる。べつに日本のものにするわけではなく、新しい国を設立するためである。ところがケシカラヌことに、どんな小島でもみんなどこかの国が盗ってしまっていて、おまけに人間まで住んでいる。

どのページを開いても中身に入っていくことができる文体の柔らかさ、航海で起こる事実の描写の面白さ、広大な空や海を目の前にした時の叙情性。この文章を書くために久しぶりに開いたけれど、また一気に読み切ってしまった。

やがてこのだだ広い風景に壮麗な日没がくる。雲はすべて水平線に沈み、太陽は雲のない水平線にゆったりと隠れた。逆に東方の空は下から黄、バラ色、水色の三層にわかれ、その下の海面がうす桃色に染まった。海はジュラルミンの箔を敷きつめたように平滑で、たまに微風がおこるとチリメン皺が一面により、すぐまた元のなめらかな肌にもどる。西空はまだ夕映えているのに、上空はすばやく昏れてゆき、意外に明るく丸い月がかかり、そのあたりはたちまち夜になってゆく。金星がひかりだす。そしてようやく西の空も夜の帳に包まれると、南の水平線上に南十字星がかすかな光を投げかけてくる。このうすい十字の印は時間と共に少しずつ上空へせりあがってゆく。

このあとしばらく、中学生ぐらいの頃まで、北杜夫の本ばかり読む時期が続く(ただし、『夜と霧の隅で』や『楡家の人びと』などの小説ではなく、もっぱらエッセイ集ばかりだったが)。私が書く文章も当然、北杜夫の影響を受けることになる。高校生ぐらいの頃に一度離れるのだが、大学生になって社会人になって、電子書籍になっていることを知って改めて買った。自分のものではないとはいえ、紙で持っていた本を電子で書い直すというのは初めてで、それぐらい私の心に残っていて、それでいて大事な作品である。