9月のモザイク

8月が終わって9月になる。朝のラジオはこぞってEarth, Wind & Fireの”September”を流す。今日を逃せば来年の9月1日まで流す機会がないとでもいうように。まだ外の日差しだけを切り取ると昨日と大差ないのだけど、「全く同じではない」というところや、 日陰にいるときの風の温度とか、そういうところに少しずつ秋の気配を感じたりする。そして、9月になれば分単位で日の入りは早くなる。1ヵ月で日の入りの差が激しい月は確か9月である。9月の始まりはまだ夏だけど、9月の終わりはもう秋。

今年の夏は何ができただろうか。9月になるたびにいつも考える。コロナ前まではしかし、9月のほうが8月よりも旅行の回数は多かった。8月の下旬には高校の新学期が始まり、9月10日には青春18きっぷの期間が終わるから、普通列車は空いてくる。更に、早いところだと9月の下旬には大学の新学期も始まる。日の入りは早くなるが、気温も低い。8月よりは旅行をする条件はよい。だから自分の本当の「夏休み」は9月だったりする。

トム・ルッツの『無目的 行き当たりばったりの思想』という本を読んだ。無目的でいようよ、とかそういう本ではなく、この本の内容自体が「無目的」そのものである。最近は「教養としての」という枕詞をつければなんでも売れるというムーブメントがあり、読めば「教養を教えてくれる」という本がもてはやされている。しかしこの本は「無目的性」の様々な形について言及するが、結局それが一体何なのかは教えてくれない。なぜなら読者に無目的を教えようとすると、それ自体が「目的」となってしまうからである。だからきっと何かにつけ「目的」「理由」や「結論」といった類のものがないと気がすまない人には、きっとつまらないものと映るだろうと思う。