システム手帳に日記をつけることで時間の無限性について考える

2008年11月22日からA6サイズのノートを持ち歩いて毎日何かしら書くようになっていたのを、ついにバイブルサイズのシステム手帳に変えた。その最初の1ページ目だから綴じ手帳ならそれなりに気合を入れて丁寧に書いたりするのだろうけど、所詮はシステム手帳という入替え可能な一枚の紙にすぎないから、別に気合を入れることもない。

要するに手帳を変えたということである。好きな時に始められて、好きな時に終えられる、というのはシステム手帳の利点の典型的な謳い文句で、来年が来るのを待つことなく、買った瞬間から使い始められる。年内に買っておいた来年の手帳は、今使っている手帳より幾分魅力的に見えるものだが、そんな我慢をせずに使い始めることができる。もし同じサイズの手帳を使っていたのなら、中身をそのまま引っ越すことができる。

ただ昨日まで使っていたのはミニ6サイズというA6サイズに近い、少しサイズの違うシステム手帳であった。だからさすがにそっくりそのまま移してくる、という訳にもいかなかったのだが、常用していないとはいえ、バイブルサイズの手帳も持っていて、中身の紙もある程度持っていた。だからすぐに始めることができたし、ちょうど9月が終わるタイミングで、そのミニ6サイズのリフィルを入れておく箱がいっぱいになったので、変えるなら今なのかな、と思った。

順番や中身を入替え可能、というシステム手帳は性質上「始まり」も「終わり」も存在しない。せいぜい、日付入りのカレンダーリフィルか、50枚なら50枚、100枚なら100枚入っているリフィルの束を使い切ったときに「使い切った」と感じるぐらいだ。ノートは最初のほうは些細なメモの集積だったが、2018年頃からまるで日記のようになってきていた。日記なら「始まり」と「終わり」が有形として存在しているノートの形状をしたもののほうが、実はふさわしいのではないかと思うこともある。しかし、中身を入替え続けることで永久に使い続けることのできるシステム手帳にその日記の機能を託すことで、一日や一ヶ月や一年というのは、結局便宜的な区切りにすぎず、時間というのは止まることなく連綿と流れていくものなのだ、ということを実感できるのではないかと今日1日だけいつものようなことをノートに書いていて考えていた。