魚が好きということと水族館が好きということは別だということについて

魚が好きな人は水族館が好きだろうけど、水族館が好きな人は果たして魚が好きなのだろうかというと、案外そうではないのかもしれない。たとえばサンゴ礁を模した水槽に赤や黄色や青の熱帯魚が泳いでいるとして、それら全ての名前が水槽の近くに掲示されていることはまずない。必ず1種や2種、「よくわからない魚」が紛れている。そして解説も写真と和名と学名ぐらいで、近くにある長い解説文はその種の特徴ではなく、その水槽が表現している環境自体の説明がなされている。でもだいたいの客はその「よくわからない魚」が一体どんな名前なのか気にすることはなく、「きれいだね」と言って次の水槽に向かっていく。

実際、水族館に来る人は魚自体ではなく、「魚のいる水の中」を見に来ている、という指摘はすでに20年前からされている*1。また近年でも水族館プロデューサーの中村元氏も同様の指摘をしており、おそらく氏はそれを前提に水族館をプロデュースしていると思われる*2

最近神戸にできたátoaという水族館は彼のプロデュースではないが、もはや「水族館」と言いたいためだけに水槽が置かれているのではとさえ思う。すなわち「プロ野球チップス」におけるポテトチップス、ファッション雑貨付きムック本におけるムック本の部分である。本当はアートやエンターテイメントを前面に出したいのだけど、そうすると一体何と銘打って人を呼べばいいのかわからなくなるので、水槽を置いて「水族館」ということにしているのではないかと思う。「奇跡の惑星」という水槽に関しては円形の部屋の中に大きな球体の水槽がぽつんと置かれているだけなのだが、20分ぐらいの間隔で、ミストを用いたレーザーパフォーマンスが行われる。水槽の中の魚とは無関係に行われるそれは、中の魚であるキンギョハナダイ*3を見るためのものではない。その部屋という空間全体を見せるためであり、球体という形を含め、水槽はそのパーツでしかない。

さすがにこれは極端な例なのだけれど、私たちは魚ではなく水族館という空間を見に来ている、ということが強調されているようで、こちら側に振り切った空間づくりとして私は面白いのではないかと思う。しかし、こういう水族館に限って、それぞれの魚の形の特徴や見分け方をちゃんと解説しているのが更に面白い(たぶん種類が少ないからだろう)。

もっとも、大半の人間は自分以外の誰かと水族館に来るのであって*4、水族館という空間すら見ていなくて、一緒に来た人間しか見ていない、と考えるのはさすがに考えすぎだろうか?

*1:鈴木克美, 『ものと人間の文化史113 水族館』, 法政大学出版局, 2003

*2:『水族館哲学 人生が変わる30館』, 文藝春秋, 2017

*3:なおキンギョハナダイは性転換する魚として知られ、珍しく普通の水族館でもその種の説明がなされる魚である。

*4:そうでない人はだいたいきちんとしたカメラを首から提げているので、カメラも持たず一人で水族館に行く私は相当な希少種である。