シャトーブリアンのような本

ビジネスや自己啓発の類の本を読むとびっくりするぐらい文が柔らかくて、まるでA5ランクの牛肉とかシャトーブリアンみたいだ。なんにも考えず、たた文章の上を目が滑っていっても「内容」は頭に入ってくるようである。言い換えると本を読んでいて頭を使っているという感じがしない。自分は頭を使わず、代わりに本の方が「教養」を教えてくれる本。「読書とは他人にものを考えてもらうということである」、ショーペンハウエル的な、あまりにショーペンハウエル的な。

「ビジネスに効く」「教養としての」という枕詞をつければ何でも本として売り出せるそんな気配がする。そしてそういうものは大概の人が「そんなことを勉強しても仕方がない」と言われているような人文科学とか芸術とかそんなものである。そういう枕詞を付けなければそんな分野のものが売れない世の中も世の中で、そういう枕詞がついたものに飛びつく人も飛びつく人である。

昨日書いたアニメや映画や本や、上記のような「教養」さえも、結局は人間とのコミュニケーションのための「ツール」でしかない世界。ただ知っていることが偉いという、反ー反知性主義とも言うべき世界。その世相の反映としてのクイズ番組の流行。

スポーツの試合は自分にはできないプロ選手のプレーを見るものなのに、クイズ番組はどうしてクイズプレイヤーの常人では不可能なプレーを見ても「つまらない」と思い、視聴者も解き得る問題でないと「楽しめない」のだろうか。プロ野球選手のミスに対して「ヘタクソ」と言えるが、難しすぎる問題に対して頭の構造が違う人たちがクイズを解くという状況にはそのような見下す発言を発する余地がないからだろうか。