文系の大学生はみんなハイデガーとか読んでるものだと思っていた

「クラインブルーのクラインの壺」(IKB colered Klein bottle)というネタを思いついたのだが、「インターナショナル・クライン・ブルー」と「クラインの壺」の両方を知っている人がこの世界にどれだけいるのかわからない。

浅田彰の『構造と力』がついに文庫化されるらしい。自分もご多分に漏れず哲学や思想にかぶれた大学生だったので(むしろ個人的には実存哲学が現代思想にかぶれない文学部生は「文系」ですらないと思っている)、『逃走論』は読んだことがあったのだが『構造と力』はない。『逃走論』は早くから筑摩書房から文庫化された上それなりに売れた本だったのでその辺のブックオフでやたらと売られていたからだが、『構造と力』は今の今まで文庫化されていなかった、ただそれだけの違いである。しかし私はもう現代思想にかぶれた大学生ではないので果たして『構造と力』を読もうと思うのかわからない。

ニーチェとかキェルケゴールとかハイデガーあたりは大学生の頃手にとって読んでいた。文系の大学生とはそういうものだと思っていた。書いてある内容についてはもう当時からわかっていたとは到底思えないのだけど、そういう本を読んでいる、という行為に意味があった。それを誰かに見せる訳でも、読んでいない人を見下す訳でもなかった。そういうことをする相手さえいなかったからである。

サークルの合宿の最後の夜は大部屋で打ち上げのような飲み会になるのだが、サークル内においてすら話し相手のいなかった自分はどのテーブルにも座らず、大部屋の片隅で改版前で文字がクソ小さい『死にいたる病』を読んでいて、場があったまってきて誰も自分の存在に目を向けなくなった頃ひっそりと自分の部屋に戻ってさっさと寝た。