ある程度の知識があるのが悪い

昼前に近所のカフェで昼食を食べながら本を読んで、スーパーで買い物をして帰ってきた。11月の頭の3連休から毎日、土日両方とも電車に乗ってどこかしらに出かけていたので、本当に久しぶりに家の近くだけで1日を過ごした。年に1度のちくま文庫の3割引だから、6冊ぐらいまとめてちくま文庫ちくま学芸文庫の類を買ってしまい、ただでさえ硬派な内容の揃っているちくま学芸文庫が読まれるのを待っている。物質として積まれていないし、大量に買いすぎたのでそもそもダウンロードしてもいないから、PC上に容量として存在している訳ではない。でも読まれるを待っている。このちくま文庫の3割引の直前に買った『日本画とは何だったのか』(古田亮, 角川選書, 2018)が激重だった、というのは言い訳で、前述の通り土日ずっと出かけていたから読書に時間を取れていなかったのが悪い。そして大量に買った中から『増補 現代美術逸脱史』(千葉成夫, 2021)という本を最初に選んだらこれもまあまあ重たい。イヴ・クライン展やらABSTRACTION展でその一部を占めるにすぎたかった「具体」について恐ろしい勢いで突っ込んでいくので重たいのである。しかしそれを読みたいと思った自分が悪い。一年前の今だったらきっとチンプンカンプンだっただろうが、曲りなりに上記展覧会や日本美術史に関する本を数冊読み切ってしまった現在、ある程度取り上げられている作家についての理解があることで「読めて」しまうことが悪い。それが、ある程度、ほんのある程度の知識しかないのに、社内のネットワークに関して、保守契約を結んでいるシステム会社に訊いてやってもらったほうが楽なのに、自分で調べてやってしまったほうが早いと思ってしまう仕事上の立場に似ている。