心象が先か、風景が先か――東山魁夷《年暮る》をめぐって

山種美術館東山魁夷の「年暮る」を見て、冬の雪の降る夕方の寂寥感のようなものが背中まで伝わってきていいなと思ったのだが、同時に画家は本当にこういう風景を見たのだろうかと思った。魁夷が観た光景は本当にこんなに青暗い街だったのか。むしろ、心のどこかに静けさとか寂寥感みたいなものがあって、それを表現するために、この京都の東山の風景を借りてきて、青のモノトーンで塗ったのではないか。風景があって心象があるのではなく、心象が先にあって、それを表現するために風景があったのではないか。

東山魁夷自体だったか、東山魁夷の「道」(東京国立近代美術館)を指してだったかは忘れたけど、「魁夷は抽象に近い」というような言説を見たことがあったのを思い出した。なるほど、屋根瓦の線だけが一定のリズムで繰り返される様、その連なりは画面と全く並行ではなく、ほんの少しだけ右に向かって上向いている。それが建物の屋根、ではなく単なる線の連なりと交わりに見えてこないこともない。そう見えたら確かに「抽象画」だと言えないこともないのかもしれない。だとすると日本人にとって一番「わかりやすい」抽象画は東山魁夷のそれだと言ったら怒られるだろうか。

ただ実際、魁夷は実在しない風景ではない風景も描いている。絶筆「夕星」などは完全な心象風景であるという。画面に描かれたものよりも心象性のほうが強い画家なのだと思う。

と同時に、本当の、と言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど、本当の具象画で画家が何らかの心象を表現したかったということがあったとしたら、それが「理解できる」ということは、なんとなくこんな感じなのかなと思った。抽象画は魁夷を見るように見ればいいと言うのか、魁夷は抽象画を見るように見ればいいというのか。