宮脇俊三『時刻表2万キロ』

「日本の鉄道に全部乗る」ということがどういうことかわかってもらうために、宮脇俊三の『時刻表2万キロ』を読んでください、というときがある。今から40年以上前、JRの前身、国鉄がいちばん日本のすみずみまで路線を巡らせていた頃、中央公論新社の役員を務めながらそれに全部乗った記録である*1。40年以上前と時代は全く違えど、やっていることは今と全く変わらない。突き詰めれば、「鉄道路線に乗るだけ」なのである。乗って、乗り換えて、日が落ちたらそこで泊まって、せいぜいそこで酒を飲むぐらい。行き止まりのローカル線では終点についたらどこにも行かずに、今乗ってきた列車に乗ってそのまま引き返していく。時刻表に書かれていないことを読み取って、組んだ予定がうまく行けば一人悦に入り、逆にダイヤの乱れで普通に乗れるはずの列車に乗れなければ一人で落ち込む。同じことをやっている人にとってはごく当たり前のことなのだが、普通の人にとっては新鮮に映るらしい。「乗りつぶし派」の人がどういうことを旅先でしているのか、普通の人が移動の時間としか考えていない時間しか存在しない旅行とは一体どういうものなのか、この本を読めばおわかりいただけると思う。

日本の文学史上にはもうひとり、鉄道に乗って酒を飲むだけの紀行文を書いた人がいる。以前書いた内田百閒の『阿房列車』シリーズがまさにそうなのだが、百閒にはヒマラヤ山系というお伴がいた。しかし、宮脇俊三は基本的に一人旅だ。それに百閒は基本的に幹線を走る特急の一等車にしか興味はないし、何より日本の全ての鉄道に乗ったわけではない*2

しかし、この2人に阿川弘之を加えた3人で、鉄道に乗るだけの紀行文は、もうやり尽くされてしまったのではないか、と思う。素材、文体、乗るだけという純粋度、あらゆる点において、である。だから、後世の人たちは、「乗る+何か」という、悪く言えば、「ただの鉄道を使った紀行文」を書く他ない。

*1:ただし、この本に書かれているのはその最後の1割に乗るところであるが、それでも2000キロ以上分ある

*2:津軽海峡の機雷が怖いという理由で北海道に行ったことがない。しかし、台湾には行っている