流れ星のノート

なぜ人は流れ星を見たがるのだろう。願いが叶うからだろうか。ただ単純にそれが綺麗だからだろうか。星にもなれない小さな物体が、自ら光を発することができる唯一の瞬間、その散り際に見せる光を美しいと感じるからだろうか。その直前に特攻隊のドキュメンタリーを見ていて、それから流れ星の中継を見ていた。暖房の効いた部屋で、ガウンを羽織り、手帳を書きながら。時折画面に向かって顔を上げると、その画面を見ていたほんの数分の間に、いくつも星が流れてゆく。あともう一個みたらまた作業をしよう。あともう一個流れたら、画面を消して眠ろう。PCの画面を通じて眺める夜空を流れる星をみた時、それを果たして「流れ星を見た」と言うのだろうか。もし見逃しても、映像を巻き戻してその瞬間まで戻れば、その流れ星を見ることができる。それを「流れ星を見た」と言うのだろうか。それは見た、ということにならない、というのであれば、現在進行系で今表示されているPCの画面で流れ星を見ていても、それは流れ星を見たということにならないのではないか。

流れ星が見えますよ、と言われて、空を見上げたら、流れ星が見える、ただそれだけのことである。なぜ人は流れ星を見たがるのだろう。