今日という日の存在を信じることができない

ある日、会社に行ったらみんなが当たり前のような顔をして働いていたり、始業の準備をしていたりしていて、それがなんだか恐ろしくなった。なんでこの人たちは、ここにいるのだろう。働くということに何の疑問も持っていないのだろう。自分もPCを立ち上げてメールを確認する頃にはそんなことさえ忘れていて、そのことがどうして恐ろしいと思ったのかよくわからない。

今日が本当に「会社に行かなければいけない日」なのか、信じることができないときがある。私は会社と労働契約を結んでいて、今日は就業規則に定める休日ではないし、有給休暇の申請もしていないから、どこにも「会社に行かなければならない日」ではない理由は見つからないのだけど、なんというか、今日という日の存在を信じることができない。今日という時間さえなくなってしまえば、その時間の中にある「自分」も一緒に消滅してしまえるのだろうか。そんなことを考える。

「今日1日を生きられるのは当たり前のことではない」という甘っちょろいセンチメンタリズムとも少し違う。なぜならそこでは「今日」の存在は自明なものとして、アプリオリなものとして存在しているから。私が問題にしているのは私の生存ではなくて「今日」なのである。私が消滅することができないのなら、消し去ることができるのは今日という時間しかない。信じることができないのではなくて、単に信じたくないだけなのかもしれない。

要するに寒くて会社に行きたくない。冬は滅びるべきである。