デカルト的な、あまりにデカルト的な

世界のほうが自分に合わせてくれるという世界認識が自分のOSのデフォルトの設定になっている人の、それが当たり前だと信じて疑わない信念の強さにある種の憧れさえ感じる。きっと子供の頃から言えば周りがなんでもやってくれたんだろうね。そして大人になってからでも、言えば周りがなんでもやってくれる。でもそれは、「世界のほうが自分に合わせてくれる」というその思考の枠組みに沿った答えを用意しなければそれを受け入れないか、明らかに不機嫌な態度で受け入れるからその人が不快になるだけだから、周りが気を使って「その人の期待する答え」を「その人の思考の枠組みの形」で用意しているだけである。そして「世界のほうが自分に合わせてくれる」という世界認識はますます強化されていく。

自分が見えているもの、信じてるものが唯一の正解であり、世界はその唯一の正解に向かって動いていると無批判に信じてそれで生きているのだろう。デカルト的な、あまりにデカルト的な*1。そのなにかを疑いもなく信じられる力、自分が絶対的に正しいと思える図太さと尊大さを少しでも見習えれば、人生もう少し楽だったのかなと思う。

高校生の頃ぶりに文庫クセジュを読んでいる。文庫クセジュは日本の新書以上専門書以下という感じで、入門するには難しすぎ、専門するには簡単過ぎるというなんとも絶妙なバランスであるというイメージがあるのと、私の読みたいテーマの本があまり出ていないという身も蓋もない理由で10年以上手をつけてこなかった。初めて買った文庫クセジュは『クロアチア』と『スロヴェニア』だった。当時は旧ユーゴスラヴィア諸国について書いてくれる一般書なんてほぼ皆無に等しかったのであるが、運悪く旧ユーゴスラヴィアに興味を持ってしまい大学の卒論までそのまま突っ走ってしまった自分が初めて触れたクロアチアスロヴェニアの解説をした一般書*2であり文庫クセジュであった。確かにそうなのだが日本語版の出版が2000年、この2国が旧ユーゴから独立してから日が浅く、訳者の立場も相まって若干「セルビア悪玉論」的な立場から描かれている気がしないでもないと今になって思う。

*1:当たり前だがその思想は徹底的な思索から導かれたものではない

*2:というよりこれらの本は帯で「日本で初めての概説書」を謳っている