死んだら死んだで生きていくのだ

結局のところXにいても今世界で何が起こっているのかなんて全くわからなくて、今わかるのは「このツイートがバズっている」ということであり、それも人間でない何かがバズっているツイートを引っ張ってきて再生産しているのを眺めるという行為によってその事実がわかる。何かが起こってるのを知るため、というのはXを始める大義名分にもなっていない。わかるのはフォローしたアカウントを運営させている主体が世界をどう認識しそれをどう表現しているかであって、それ以上でもそれ以下でもない。

みんなはどれだけ世界を憎もうとも、いずれ結婚して家庭を持って子供を作る。出生率がどうだの若者の恋愛離れだのがニュースで言われようが、まだそうする人のほうが「多数」であって、そうすることが「普通」「当たり前」という世界であることには変わりはない。結婚はできないのではなくしない、といちいちそう主張しないとそうであることすらわかってもらえないのは、要するにそういうことであって、2020年代に入ってからは初めて行われるようになった、何らかの飲食の会合の場で相変わらず私はその旨の類のことを言い続けている。「ああこれが『取り残された』って感じるってことなんだろうなあ」と他人事のように思ったことももう5年以上前の話で、やっぱり他人と一緒に生きていくことは私にとっての幸せではないし、友人なんて数ヶ月とか1年とか数年に1回ぐらい会うのが一番ちょうどいい(あ、でも大学のサークルの同級生は会いたくないです。面会謝絶)。昼休みの60分間ですら、一人で手帳に向かっていないとたぶん生存ができない。しかしどれだけこの世界が生きづらいと思い続けていても、なんだかんだで私は生きていくし、咄嗟の判断で私は自分を守る行動に出るのだと思う。