日記は続かないものである

毎日なにかを紙にペンで書くという癖(スマホのメモに文字を打ち込むのではない)のない人は絶対に日記は続かない。裏返せば、日記を書こうと思う前に毎日なにかを手書きする癖をつけろ、ということであり、それ以外のことで日記が続くコツというものはない。貴方の日記は続かない。日記が続くというのは幻想に過ぎない。

それでも日記を書きたいならとにかく「何も決めないこと」が大事な気がしている。たとえば1日の終わりにその日にあったことを書こうとも思ってはいけない。絶対に寝落ちる日があるからである。日付の枠が入ったノートも使わないほうがいい。書くことが多すぎる日に足りなくて困るからである。使う筆記用具も固定しないほうがいい。筆記用具をなくした瞬間に書く気力がなくなる。またこれも大事なのだが、絶対に1月1日に始めてはならない。1月1日というのはだいたいの人にとって1年でいちばん暇な時間が多い日で、つまり日記に割ける時間が多いからである。

とにかく書きたいと思ったときに書く。そのためにはちょっといい感じの小さめのノートを1冊常に携行するのがよいから、装幀のしっかりとした箱入りの日記帳なんて使ってはいけない。なんかノートを持っていないからといって他のメモなどに書いてあとで書き写そうなどと思ってはいけない。そのメモは永久に書き写されない。それならまだメモをそのまま貼り付けたほうがいい。

そうやって書き残されたなにかが日記と呼べるものか私が知ったことではないが、私はそうやってもう20年近く日記のような何かを書いている。しかし永井荷風は「四月十三日。晴。」だけの記述を「日記」と称しているのだ*1

ただ別に日記が続かなくてもなんの損もないし、日記が続いてもなんの得もない。むしろ事故で死んだ時にマスコミが喜びそうなお涙頂戴のネタを提供するだけで、まるで損しかない。だから日記が続かない人はもっと誇っていい。

ページが完全に白いままなのは、きょうだけではない。これまでの私の人生で、多くのページがほとんど白いままである。もっともすばらしい贅沢は、あなたがたに無償であたえられている人生にたいして、それを惜しみなくあたえた人とおなじように、それを惜しみなく浪費すること、無限の価値をもったものをせまい利益の対象に変えたりしないことなのだ。
ジャン・グルニエ, 『孤島』, 筑摩書房, 2019)

旅行に行った先でやる一番贅沢なことは、普段の休日と全く同じように過ごすことだ。すなわち、「観光」なんてせず、イオンモールに出かけ、全国チェーンのカフェやファミレスで飯を食べ、家から持ってきた本を読み、夜はコンビニで弁当を買って部屋で食べる。私はまだその域まで達していないので、美術館や水族館に行ってしまうし、チェーンでないカフェに入ってしまうし、うっかり本屋に行こうものなら郷土図書のコーナーに行ってしまう。

*1:断腸亭日乗(下)』, 岩波書店, 1987, 408p